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そよそよ族ノート

備忘録的に観劇記録を書きます

#14 2016年書き残し感想②『ソコナイ図』『あなたが彼女にしてあげられることは何もない』『桜の園』『カラカラ天気と五人の紳士』

 

 

前回の記事の続きです。

 

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dracom『ソコナイ図』(観劇日:11月26日)

森下スタジオ 11月25日-28日

作・演出 筒井潤

出演 鎌田菜都実 村山裕希 大石英史 小坂浩之 長洲仁美 大江雅子

 

 大阪を拠点とするdracomが、東京で二本立てを上演。本作はそのうちの一本である。年末なのか年始なのかわからない時間帯、他に誰もいない家で二人の姉妹が倒れている。「ずっと餓死している」とでもいうような、持続された死の時間が長尺で描かれる。姉妹はほとんどの場面で倒れた体制をキープし、思い出したように過去の話を語る時は、ゆっくりと立ち上がる。そして、やがてゆっくりとまた横になる。そうして死ぬ動作は何度も行われる。この作品も全編ほぼモノローグと言えるような語り口である。「もう年明けた?」という風に妹は姉に語りかけるが、それは語りかけるといより答えを求めぬひとりごとだ。その口調は死んだ姉妹だけでなく、姉妹の周囲に生きる人間たちにも電波している。

 セリフの反復で構成されているといっても差し支えないつくりだが、時間が巻き戻って繰り返しているという感覚はほとんどなかった。発話法がかなり特殊であるためだと感じる。役者は一定のテンポをキープしながら抑揚をおさえセリフを発する。まるでベルトコンベアに乗ったセリフを業務的に取り扱っているようである(これ伝わるだろうか)。時間が止まっているようでいて、進んではいると感じさせるのだ。過去に戻るわけではないのである。また、セリフには細かなエラー(言い淀み)や、単語のすり替えがおきていて(おそらく気づかなかった箇所も多いだろう)、これももしかしたら「反復である」という感覚を消す要因となっていたのかもしれない。

 妹の手のひらに握られた5円の描写もみごとで、みているこっちが重苦しい淵にひきずりこまれるような暗さは私にとってはもはや快感である。死の感覚を言い当てることは不可能だが、もしかしたらこんな感覚なのかと思うほどに生々しく感じられた。都市で餓死してしまうという社会的な題材ではあるが、提示された死の感覚に驚いた作品であった。

 

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チェルフィッチュ『あなたが彼女にしてあげられることは何もない』(観劇日:12月4日)

南池袋公園内Racines FARM to PARK 12月2日-4日

作・演出 岡田利規 出演 稲継美保

 

 南池袋公園にあるガラス張りのカフェが会場である。出演者である女優は開演後に、カフェの中にあるテーブルに座り、そこから一歩も動かず演技をする。観客たちは、それをガラスごしに外から眺めるという形になっている。女優のテーブルには集音マイクが設置してあり、彼女がしゃべることのみならず、カフェの雑音を拾う。観客は、ヘッドホンをすることでそのマイクの音を聞き取る。テーブルの真上には、ちょうど面と平行になるようにカメラが設置され、テーブルの上の様子がモニターを通じて観客に伝えられる。出演者はひとりごとを、固い口調で話す。その内容は、世界の創生に関わる神話のようなものである。彼女は、テーブルの上にあるコーヒーや砂糖、ミルクを使ってそれを表現する。遠く思える神話の世界が、私たちにとって身近なカフェの世界に重なる。

 カフェで、少しイタいと思わせる格好(意図的でなかったらただの誹謗中傷ですみません)をした女優が、ぶつぶつと神話を語るというのは、もしこれが「演劇でなかったら」、無視されるできごと、あるいは少し気味悪がられる状況であろう。彼女の言葉は、演劇というフィクションの枠にあるからこそ無視されないで私たちの耳に届く。今世界に生きるモノすべてが嘘を信じている、という彼女の声が聞こえてくるので、私たち観客も疑念を持たずに生きている部分はあるかもしれないしかし神話なんて持ち出されても……と私は考えることができるのである。フィクションを通して語られ、届けられる声があることを再認識した。裏を返せば日常では、変なことを言う人の話なんて聞いてはいられない。

 面白かったのは、一般のカフェの客や店員が女優にまったく触れないことにより、フィクションの枠が強くみえたことだった(上演を邪魔しないように、机をくぐって移動する女性などがいた)。タイトルにある断絶は、カフェのガラスとして目の前にありつつ、女優が話す物語自体と、演劇であることに対しての疑念として心に残る。

 

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地点『桜の園(観劇日:12月24日)

吉祥寺シアター 12月20日-24日

作 アントン・チェーホフ(訳 神西清

演出 三浦基 出演 安部聡子 石田大 小河原康二 窪田史恵 河野早紀 小林洋平

 

 話の内容やセリフはそのままに、三浦が再構成した『桜の園』は、同じ12月中に上演された『かもめ』と同じく、地点のレパートリー作品のひとつである。大量のコイン(近くでみなかったが、1円玉?)で囲まれた四角い土地の中央に、窓枠で縁取られ肖像画のように一家が居座る。いずれ桜の園を買うロパーヒンが見張るように土地の周りをせわしなく動き、同じく土地の外側にいる大学生のトロフィーモフは思想を語る。

 みた当初、わからなかったとかなり嘆いた。もちろん地点独自の音楽的な発話に面白さや気持ちの良さを感じたし、ロパーヒンが踊り狂う様に『桜の園』が喜劇である一面をみたという気分にもなった。しかしそれはあくまで表面的な快感であると感じる。ほとんど直感なのだが、この作品をしっかりとみた時にはもっと得体のしれない感覚を覚えるのだと思う。この『桜の園』という近代戯曲のことばが、いま・ここで生み出されているという感覚をまずしっかりとつかまなければと思う。地点の『桜の園』を味わうにはまずそこからだと感じる。普通は容易く感じ取れるのかもしれないが、鈍い観客である私としてはみかた(態度? 集中力?わからないが……)をつくり変えねば味わえないという確信があった。そして、身体に変化を要請する作品は、やはりすごいものなのだとも予感する。

 (感想を書くに至らないけれども、ラストのセリフ群の切なさはやはり染み入る。)

 

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中野成樹+フランケンズの短々とした仕事5『カラカラ天気と五人の紳士』(観劇日:12月29日)

STスポット 12月27日-30日

作 別役実

演出 中野成樹

出演 浅井浩介 篠崎高志 竹田英司 鈴鹿通儀 山田宏平 斎藤淳子 新藤みなみ  

 

 『ゴドーを待ちながら』の別役版ということができる「五人の紳士シリーズ」の、本作は(たしか)3作目にあたる。風の吹くだだっぴろい土地で、五人の紳士がとりとめなく話をつないでいく。懸賞であたった棺桶と青酸カリという物を前にして、どのように行動していくかを彼らは語りあう。

 私は別役戯曲を面白いと思う反面、読むのがしんどいと思うことがある。その理由の半分くらいが、登場人物がほとんどの場合「男1」「男2」という表記なので、人物の把握がしづらいということにある。なので、上演してくれるというだけで本当にありがたい。そして、上演をみると、文字を追うのとはもちろん違う印象を受ける。読み物として成立しそうな別役戯曲は、上演を踏まえたものの方がやはり良い、と確信できるので、ナカフラの別役上演は好きだ。

 真面目にしかしゃべることのできない紳士らは、発言に対し忠実に行動する。その妙な「別役縛り」のある世界は、何も無い砂漠であるようでいて、実に窮屈ともいえる場所である。天井から垂らされた糸電話の糸が、外界へのつながりだとはっきり見えた時に、これが別役戯曲か〜と謎の感慨が湧きとても満足してしまった。

 会場で会った友人は、この演劇特有の演技やしゃべりのルール(現代口語ではない発話)が苦手と話しており、その気持ちは少し分かった。ナカフラの上演においては、私はそのルールが不思議と前に出て来ないと思っていたので、感じ方に個人差がかなりあるのだなと認識する。「演劇では人が死ぬことはできない」という考えてみれば当然のことに対しても友人は触れていた。本作の中で、女性二人の死はセリフ上でのみしか伝えられない。それは気づいてしまえば陳腐な表現法だ(しかしそれしか死を表現するやり方はない)。ただ、五人の紳士のいる舞台上だけが特別で、そこに立っていない者の死はふいに現実的に感じられなかっただろうか。もはや舞台上だけが孤立し存在する世界のような……友人はそうは思わなかっただろうが……この手法が有効的になるにはどうしたら……。

 

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だんだんと長くなりましたが去年の観劇の感想はこんな感じでした。

 

 

#14 2016年の書き残し感想①『人間と魚が浜』『狂犬百景』『是でいいのだ』『フェス』『わたしたちのことを知っているものはいない』

 

あけましておめでとうございます。

2016年の夏あたり以降にみたもので、ブログに書いていないものがいくつかありまして、まあいいかとも思っていたのですが、短く触れておくことにしました。

いつも通り内容と感想だけです。

意外と長くなってしまったので、2回にわけてみました。

 

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三野新『人間と魚が浜』(観劇日:7月17日)

G/P gallery SHINONOME 7月14日-18日

出演 大場みなみ 佐藤駿 滝沢朋恵 立川貴一 宮崎晋太郎

 

 人間と魚が、写真を入り口に、物質(釣り用語でいう「ストラクチャー」)を介してコミュニケーションを図る。しかし、魚釣り(これは、戦争における射撃にも重ね合わせられる)の動作により人間と魚の関係はする-されるというものに固定される。人間と魚のコミュニケーションは不可能なのか、可能にすることはできるのか……ということを考える内容だと解釈。視線の関係を軸に、釣り、恋愛、人間関係、戦争、と枠を広げて考えられる作品。写真と物質を介するコミュニケーションというのが特殊で、こんなのアリかいという感じなのだが、アリに思えてくる詳細な手つきがこの作品のいいところなのだろう(しかしその手つきの詳細については理解しきれなかった)。人間を醜悪に描くこと、そして魚役も結局は人間であること、このあたりは意識されていたと感じるので、いずれ意図をきいてみたい。複雑な手順を踏むつながりの新たな方法が編み出されてはいたが、パッケージは一夏の恋物語のようになっていたところがすごい。

 

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MU『狂犬百景』(観劇日:10月8日)

三鷹市芸術文化センター 星のホール 10月1日-10日

脚本・演出 ハセガワアユム

出演 古屋敷悠 青木友哉 井神沙恵 真嶋一歌 沈ゆうこ 佐々木なふみ 古市みみ 植田祥平 大塚尚吾 青山祥子 山崎カズユキ 森久憲生 菅山望 森口美香 加藤なぎさ 浜野隆之 成川知也 星秀美 NPO法人 長尾友里花 黒岩三佳

 

 MITAKA ”NEXT” Selection 17th に選出されたMUによる、短編4作で構成された長編。犬が人を襲う「狂犬病」(襲われるとゾンビ化する)が蔓延した世の中での模様を描く。昔死なせてしまった飼い犬への想いを行動理念に宗教に走る女、犬に襲われるごたごたの中で次々と暴露を始める製菓会社の人間、狂犬病にかかった犬を惨殺する漫画家……各話の登場人物たちは、第四話の動物愛護センターという場所で一堂に会する。かなり登場人物が多いと思うが、それぞれのキャラクター像がしっかりしているので、四話で明らかになる部分に違和感がない。そして、多すぎない説明が、キャラクターの裏側の性格まで予想させる効果を発揮していた。しかし、どうしても話のためにキャラクターが生み出されて動かされているという印象が否めない。では話に従事しないキャラ像とは?と問われると答えられないし、これはほとんど好みの問題かもしれないが……。

 本当に頭のネジが飛んでしまっている人と、狂った「フリ」をしている人の微妙な違いが明確に示される箇所がすごい。しかし、人は極限に追い込まれるとベロチューするのか? 狂うと性に奔放になるのか? このあたりは「人ってこういうもん」と言われてもよくわからんわとなるしかない。疑念が残る。

 

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小田尚稔の演劇『是でいいのだ』(観劇日:10月9日)

新宿眼科画廊 地下スペース  10月8日-12日

脚本・演出 小田尚稔

出演 板橋優里 豊島晴香 橋本清 細井準 山村麻由美

 

 イマヌエル・カント著作、『道徳形而上学の基礎づけ』を元にしたという作品。「これでよいEs ist gut」という言葉にもある、「よい」ということについて考える、と説明書きにある。

 震災の日の日常を描いた群像劇で、ほとんど全て、会話ではないセリフ(モノローグとも言える)で構成されている。それぞれの葛藤を抱える登場人物が、ちょうど「よい」結末に収まるといった、一歩間違えれば陳腐にもみえてしまいそうな物語を丁寧に描き出す。第四の壁を取り払うでもなく、「もともとないからなぁ……」と言うような、ある意味まっすぐな演出が良い。その演出は、観客や他の役者の挙動を無視しない、というごく当たり前に思える行動に強く現れる。周りを気にして、しかししすぎないように生きる。生活と演技が地続きになっている印象を受ける。演出が行き届いているのか本人の実力なのか不明だが、山村麻由美がずば抜けていると感じた。

 生きることを「よい」と全面肯定することには抵抗がある。しかし、少し頑張っていたり少し報われていなかったりする人や自分に対して、「いいんじゃない」と声をかけることが、悪いことではないと、そう思わせてくれる作品だった(卑屈に生きていると響く)。

 

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ゆうめい『フェス』(観劇日:10月22日)

スタジオ空洞 10月19日-23日

作・演出 池田亮

出演 矢野昌幸 鈴木もも 小松大二郎 宮岡有彩 中澤陽 大石健太郎 田中祐希 池田亮

 

 両親が亡くなったデッサン教室(塑像教室?当パンにヌード教室とあったけど、ヌード教室という名称は一般的なのか?)を営むある一家におこった物語。遺骨を使って塑像を作り上げて欲しいという両親からの無茶苦茶な要求を軸に、冴えない男が全裸であたりを走り回るに至るまでの過程を描く。本作を書くにあたり、何件かの教室への取材を敢行しているらしい。

 まちがいなくハイバイのフォロワーなのだが、強く観客の心にはいってくるのではなく、自分発信の自意識がそこに留まり、溜まり続けているという印象。取材を行ったらしいが、そこで得た内容が単なる物語上の「要素」として並べられているのではないかと疑ってしまう。このような事実の引用の仕方は意図的で無いにしても好みではない。また、何か最終的に舞台上でみせたい風景があるのだろうが、そこへと猛進しているために置いて行かれたと感じる。安易な下ネタは単純に心配になる。挑発的な前説も無自覚っぽいので心配。

 

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バストリオ『わたしたちのことを知っているものはいない』(観劇日:11月12日)

桜台pool 11月9日-13日

作・演出 今野裕一

出演 砂川佳代子 橋本和加子 坂藤加菜 佐藤駿 中野志保実 半田美樹

 

 出演者=役名という形で、登場人物たちは己の体験談のようなことと、沖縄についてのことを語る。旅をする人間(佐藤駿)がうっすらとした軸となり、様々な語りや景色が巡る。構成は複雑である。舞台上には吊るされたマイクと照明、壁に映された映像、何枚も貼られている揺れる白紙、時計、などなどがあり、視線を向ける場所に悩む。話が散漫ではっきり言ってよくわからないのだが、散漫さは意図的だと分かるので、そのような批判の意味の無さを同時に感じる。具体的な物語が無いために、「想像」ということが常に問題として扱われているように感じた。語る対象物、もしくは語りかける相手、それらが「不在」であることを意識するのではなく、それらを「想像」することを念頭に置くというような。登場人物が提示しているのは「想像する態度」だ。具体的な地名である沖縄や、戦争という言葉が彼らの思考・想像のきっかけとして配置される。

 飄々としたシティ感ある作品だが、水に潜るイメージなどは美しく、キャッチーな部分が多数あったのは意外だった。マイクを吊るした音響は最高。

 

 

②に続きます。

#13ホロロッカ『海に騎りゆく人びと』の内容と感想

観劇日:2016年10月2日14:00の回

上演時間 約60分

 

※ネタバレ含みます

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 ホロロッカという団体の劇をはじめてみる。みた理由は、原作である『Riders to the sea』(邦題が『海に騎りゆく人びと』であるようだ。にしても良い訳だな)の作者、シングについて知ってみたいと思ったことと、フライヤーをとても気に入ったこととが挙げられる。

 

 眼科画廊の広くはないギャラリースペースの中央に、小さな机が置いてある。膝くらいの高さ。上手奥に小屋——といっても手で抱えられるような小さなもの——が設置してある。中央奥に、ウォータータンク(これの正式名称がよくわかってないのだが、他に言うとしても水タンクとか、容器とか、そのような表現となる)があり、ちょっとずつ水が漏れている。その下に丸く透明な鉢が設置してあり、水はそこに垂れる。ポチャッポチャッと水の音。他にも小物がいくつか置かれていたが、把握は仕切れていないので割愛。

 照明が落ち、暗転の状態になる。薄明かりだけがついているなと思った記憶はあるのだが、確かではない。ただ暗かったという印象。黒い服をまとった役者たちが登場し、ゆっくりとした動作で定位置につく。定位置についたら明転するのかと思いきや、暗闇の中で役者たちはまた自身の立ち位置を変える。この舞台では、ある一部の場面を覗いて、全編照明はその暗さのままなのである。

 二人の役者が顔——暗闇で判別できない——の前に人形を抱える。明るい照明の下でみるのはほぼ不可能なため、細かい造形はわからないが、人形の目元は落ち窪んでいて(もしくは完全に落ちている?)、骸骨のような印象。人形を掲げながら、役者たちは演技をはじめる。しかし、セリフは棒読みというか、感情のこもっていないまさに人形のような話し方で発せられていて、一定の調子を保っている。

 物語の内容は以下のようなものである。

 

 ある島にいる姉妹が、海に出た兄の遺品らしきものを島の神父から受け取る。そんな中、残されたただ一人の男兄弟も、海に出ようとしている。姉妹たちの母は、そのことに反対している。この一家にいた男たちの命が、海によって次々と奪われているからである。しかし、その残された最後の一人の息子も、海に出るといってきかない。

 のちに、馬とともに海へ出た最後の息子は、死体となってかえってくる。海はこれ以上、私に何もできやしない、と、嘆きを通り越した静けさで母がつぶやく。

 

 以上がおおまかな内容である。このような人形劇がくりひろげられるなかで、役者(最後の息子役をやっていた方のみだったか?)は小物楽器で時折アクセント的に音を出す。また、炭酸水らしきものをガラスの器にいれ、そこへビー玉を投げ込む(投げる、というより当てていた?)という動作をする。暗闇でほとんど何をやっているかわからず、観客は音でそれらを認識する。

 照明がつく、というか、中央より上手よりに縦に設置された蛍光灯が一瞬明滅する箇所がたしか2つある(少し記憶あやふや)。ひとつめは、打ち上げられる死体や遺品から、それが誰であったかを判別することはできない、というような内容のセリフを言っていたあたりだと記憶している。「(これは、)誰?」というセリフの直後に、蛍光灯が激しく光る。姉妹が神父から渡された遺品を見るシーンは印象的である。妹は、これが兄のものであると断言するが、姉はわからないと言う。海に出て行った者は数知れず、これが兄であるとどうして断言できるか、と強い口調で言う。

 ラストシーンでも明かりがつく。最後、人形を持った役者たちは、母役の役者が発話している傍らで、そっと人形を顔の前から降ろし、パンを食べ始める。男手のない(おじさんはいたみたいだったけど)葬式で、体力をつけるために焼いた、という設定のパンである。役者たちはパンを食べながら観客がいる方向へ顔を向ける。どこかそこらあたりで、ふと地下鉄(大江戸線だったか)のアナウンスが流れ出す。数秒でそのアナウンスも消え、母役もいつのまにか人形を降ろし、そしてペットボトルに入った液体を飲む。その後、今度は明滅でなく蛍光灯がついて、役者の顔がはっきりとわかる。

 

 

 

 会場自体があまり大きくなく、そして観客の数も少なかったためか、静けさが強調されて緊張のはしる観劇だった。視覚情報が制限されるのもあり、光と音の演出が際立つ。ぼそぼそとした声が異様に目立って耳につく、という体験は今までにあまりない。ほとんどホラーである。また、暗闇は光と音の強調のためだけに存在するのではなく、暗闇の中でうっすらとみえる/みえない/みえてくるものを産む、という効果を発揮していた。

 亡霊のようにうかぶ人形が存在する舞台上は、ファンタジー上の遠い世界(もしかすると死後の世界)であるように感じられる。それが蛍光灯の明滅により、現実の、眼科画廊の一角であることがあらわになる。現実世界の電車アナウンスや、生身の役者の存在の強調によって、島の世界がいま、ここに接続される。このような解釈をすると、かなりストレートな演出にもみえてくるが、むしろストレートじゃないやり方である必要は別にないか、と妙に納得させられた。細かな音や小道具による演出が、その納得感につながる説得力を生み出していたのだと感じる。

 一番よかった場面は、母、そしてその娘の姉妹達が上手から下手にかけて斜めに並び、同じセリフをつぶやく箇所である。今まで体験してきた死体との対面について、語っている場面だ。

 母が自分の体験を淡々と語るのであるが、しばらくすると姉(を操る役者)がボソボソと何かを話し始める。この時点では何を言っているのかはわからない。その後、いつの間にか、妹(を操る役者)もボソボソと何かを話し始める。このあたりになると、姉が何を話しているのかが聞き取れるようになる。母の発言を重複しているのだ。妹もまた同じである。母と娘、という二世代にわたり、「繰り返される死と葬式」についての話がなされるのだ。まるで一家に末代までかかった呪いがあるかのように。

 「人はいずれ死ぬ」という認識はだれしもが持っているはずなのに、それが永遠に続く呪縛であることを意識させられると、あらためて恐ろしさを感じる。加えて、そのことがボソボソとしたしゃべりによって気づか「される」という発見へのプロセスには興奮した(勘のいい人は、ボソボソしゃべりの内容はすぐわかるのかもしれないし、この聴こえ方は観劇回にもよるのだろう。演出によって意識されているかは微妙である)。

 

 物語の最後、老母はもう祈らなくていいのだと、涙もながさずにつぶやく。しかし、「死」という存在が消えるわけではもちろん無い。これまであった「死」と、これからも続くであろう「死」の予感が最高に絶望的である。

 

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ホロロッカ『海に騎りゆく人びと』

2016年9月30日〜10月5日 新宿眼科画廊スペース0

原作 J.M.シング

上演台本・演出 塩田将也

出演 新田佑梨(ホロロッカ・無隣館) 三浦こなつ 小室愛 松崎夢乃

 

#12  遊園地再生事業団+こまばアゴラ劇場『子どもたちは未来のように笑う』の内容と感想

観劇日:2016年9月6日

 

※ネタバレを多く含みます

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 本作は、3月のワークインプログレス、6月のリーディング公演を経て上演された作品である。宮沢章夫率いる遊園地再生事業団と、こまばアゴラ劇場のコラボレーションにより企画されたものである。

 

 舞台は鳥のカゴのようなもので囲われている。左右に出入り口がある。映像を映すためのモニターがいくつか上方にある。カゴの中央にはテーブルと、椅子。テーブルと椅子は場面場面で動かされながら、ほとんどのシーンで使用される。

 

 ふにゃふにゃと漂うようにやってきた俳優と、女優がカゴの中央でセックスをするシーンから物語ははじまる。この時にできた子ども、世界中で唯一このカップルだけがセックスをしていたたったの15分の間にできた奇跡の子どもが、また子どもを生んでいく、ということが、主軸として描かれる。

 奇跡の子供ーー名前は涼子というーーの産んだ子は、先天的に障がいを持っている。その事実に対し、周囲の人間は戸惑いや拒否感など、様々な感覚を抱いている。「周囲の人間」とは、なにも涼子の知り合いに限らない。この舞台では、「子どもを産む」ということに対する様々な考えが、群像劇的に描かれる。

 その中で、佐季という人物の考えや境遇が、ひとつのキーポイントとなる。佐季は、三人の女優によって表現される一人の女性である(クレジットではそれぞれ、昼下がりの佐季、日が落ちてからの佐季、明け方の佐季、というような分けられ方をしている)。佐季は体質的に、子どもを産むことができない。彼女はその原因を夫にも求め、そのせいもあり夫婦関係はギクシャクとしている。

 夫に何の問題もないことが発覚した後、彼女は勤めているカフェで、妊娠中の涼子に遭遇する。涼子が障がい児を妊娠していることを知った佐季は、激しい口調で涼子に「堕ろせ」と言うーー三人の女優で描かれる佐季の内には、「堕ろせ」と思っていない、絡み合った感情が存在するのだが。その意見に対し、涼子は強い意志を持ち、「産む!」と何度も答える。

 

 物語の結末、というか、ラストは上記したような運びである。それに至るまでの群像劇パートでは、そのような衝突ばかりではなく、もっと多くの、出産に関する考えやできごとが描かれる。障がい児の存在を認めない、または絶対に産んだ方がいいという意見、ただとまどうという姿勢。また、女性が妊娠に気づく瞬間や、妊娠した妻を持つ夫たちの様、不妊症の男の行動なども。

 そしてこの舞台の、おそらく最大の特徴である部分は、それらの意見やできごとにまざり、たくさんの小説や戯曲のことばが引用される箇所だ(うち一つは雑誌記事であったと記憶している。一つどころではなかったかもしれないが)。それは妊娠や出産、子育てに関する記述であり、生物学的な説明、出産体験のすごさ、または子育てにつきまとう絶望などの内容がある。役者たち9名は、涼子たちのいる軸の物語からふにゃふにゃと役を変化させ、朗読者として引用をはじめる。本を持ちながらその内容にある役柄(著者であったり登場人物であったり)に沿った演技をするのだ。引用の出典は、舞台に設置されているモニターに映される。日本の作品が多かったが、国外のものも含め、年代は特に定められず収集されたものではないかと感じる。

 群像劇パートと引用パートは入り乱れて展開される。時に役者たちは手拍子でリズムを刻み、演舞のように皆で動作をするなどして、場面を転換していく。引用部分、群像劇、引用部分、引用部分、群像劇……または、それら世界線が曖昧なままに進行するパートもあった。

 

 

 内容の説明はこのくらいにして感想に入ってしまうが、とにかくこの公演では、出演している女性陣たちの力強さにかなり感動した。特に佐季のうちのひとりと、涼子の姉、真美を演じた長野海は透明感ではない美しさを持っていて魅力的に思えた(もちろん、対して俳優が悪かったということは無いのだが、そのあたりは演出方法への疑問に絡めてもう少しあとに書く)。

 また、本当に難しい問題に立ち向かい、そして投げっぱなしでは無く謙虚にも意見を提示するという姿勢は、とても誠実に思えた。その誠実さはこのような作品にはなくてはならない部分であると感じた。結果この作品は、自分自身が妊娠、出産という尋常ではないことをする時、どうなるのだろうどうするのだろうということを考える契機を与えてくれた(私にとって)。

 

 しかし、ひっかかる点がいくつか残るのも事実である。その中には、とても個人的な問題によるものもある。個人的なことはとりあえず除外して書くとして、最もひっかかる点と言えるのは、異常に「演劇的」であることである(ここでは、「演劇的」という言葉を、発話方法や人物像がリアルに準じていない、もしくは、役柄をコロコロと変化させるような、想像力により許された自由度がある、という意味で使用している)。

 引用部分がオーバーアクションになるのは、セリフに「」をつけているためかもしれないが、群像劇パートにおいても、特に俳優たちに与えられている演出はどこか「演劇感」が強い。まずキャラクターが濃い。また、まるで笑いをとるためだけのようにモブ的に配置された俳優もいる(真実、その狙いはわからないし、私も笑ってしまっていたのだが)。加えて、群舞のような演出と、コロコロと変わる配役。これら演劇特有の場面転換にはどこか懐かしささえ感じた。

 演劇感が高まると同時に「これがフィクションである」という感覚も高まる(もちろん元々フィクションなんだけども)。ラストの涼子と佐季の衝突は、フィクションの力を借りたことでおこったものだということを強く意識する。確かに、意見の対立と喧嘩というものは現実でも起こるかもしれない。しかし、見ず知らずの他人といきなり本音をぶつけあう機会はそうそう無いとは思うし、(対面の)喧嘩とは一時的なものだ。佐季が三人いたように、いろいろな意見を内にしまいながらも、なんとなく折り合いをつけ、ごまかしながら生き続けなければならないというのが実際である。現実でおこる意見の対立のいきつく先は喧嘩ではない。

 フィクションが佐季の意見を尖がらせ、フィクションが涼子という存在に喧嘩をふっかけるようにしむける。その結果、涼子は産むという決意を強めたかもしれないが、その衝突によって佐季はどうなっただろうか。

 もちろん、誰も傷つかないように言葉を発することは難しいし、何かを発言をする上でそのことに臆してはならないという思いもある。しかし、フィクションという神がかり的力を使って、しなくてもいい衝突を生むというのには、何か耐え難いものがあった。裏を返せば、フィクションの力でしかできないことをやり遂げた、という賞賛にもなるのだが。

 ひっかかりはもうひとつ。引用の仕方についてだ。もちろん、宮沢章夫が文化に関する知識と、それに対する精確なまなざしを持っているとは認識しているつもりだ。引用に関しても、非常に慎重に考えられているのだろうと予想できる。しかし、断片化され、演出という解釈の加わった記述がポンポンと投げられると、どうしても戸惑ってしまう感覚がある。極め付けは佐野洋子のエッセイと、唐十郎の戯曲の引用の仕方であった。出産に関する佐野洋子のエッセイは、恐ろしいほどの多幸感をほとばしらせた役者によって読まれていた。それはひとつの正しい読み方なのだろうが、正直引いてしまった。唐十郎の戯曲(作品名を失念してしまった。。)の引用に関しては、極端なデフォルメがなされている気がした。これも面白意見のうちのひとつ、という紹介の仕方にみえてしまう部分があった。まったくもってそういう意図はないだろうが、そう、みえてしまったのだ。これについては私がうがった見方をしすぎているのかもしれないが……。

 とにかく、引用の方法に関しては、もう少し別のやり方はなかっただろうかと思ってしまう(思いつかないけど)。あとは、引用した作品の選出基準がわからなかったということもあるが、そのあたりは自分の学の無さを恨むことに留めておく。ほとんど読んだことないor内容忘れていたものだった……。

 

 なにか本当に大切なことが舞台上で表現されていた気がしたのに、その手前でひっかかってしまっているという感覚がある。それはとても惜しい体験である。ただ、「この作品を通して対話をしたい」という宮沢の思惑にはしっかりとはまってしまっているので、これはこれでいい観劇体験であったかもしれない。しかしながら、ごちゃごちゃ考えてみてはいるが、『子どもたちは未来のように笑う』というタイトルは反則的に強い。

 

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遊園地再生事業団こまばアゴラ劇場『子どもたちは未来のように笑う』

2016年9月3日〜25日 こまばアゴラ劇場

作・演出 宮沢章夫

出演 上村 聡 松田弘子 長野 海 鄭 亜美 黒木絵美花 藤松祥子 大村わたる 小寺悠介 大場みな

#11壁ノ花団『水いらずの星』の内容と感想

観劇日:2016年8月28日 15:00の回

 

 

※ネタバレばかりです

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 劇作は松田正隆、演出は水沼健の、『水いらずの星』は、2000年にも上演された作品らしい。私は今回はじめて、こまばアゴラ劇場にて本作を観た。

 

 舞台上には出入り口らしいオブジェのような塊、天井の方には斜めに大きな窓が設置してある。出入り口の横にはなぜか非常ランプが取り付けてある。外では雨が降っているらしく、窓に雨粒が当たる音がしている。中央には小さな座卓。雨のせいか全体的に暗く、時間帯が想像できない。ぼうっと何も無い一室が浮かび上がるように照明が当てられる。

 出入り口から30〜40代くらいの女が入ってくる。その格好から、水商売を生業にしているということがわかる。次いで朴訥とした男が入ってくる。二人とも雨に降られたために、体をタオルで拭いている。二人の会話から、彼らがもともと夫婦であり、この暗い空間が、女の今の自宅であることがわかる。

 彼らは数年ぶりに再会したようだ。かつて女は浮気の果てに逃亡、今はこの、四国(香川だったか)にあるアパートで一人暮らをしている。訪ねてきた男——夫に、なぜ場所を突き止めて会いに来たのかと女が問う。対して男は、自分の余命があとわずかであることを打ち明ける。この事実にまともに反応してくれるのが、元(といっても、離婚届は出していないのだが)妻なのではないかと思い、知り合い伝いに、女が働いている店を知ったのだという。

 能天気な調子でしゃべる男に、女は困惑しながらも、彼女が家を出てから経験してきたことを男に話す。その内容は壮絶なものである。新しくできた男と逃げた女であったが、その男の叔父(伯父?)に彼女は襲われる。新しい男はしかし、叔父に仕事をもらっているがために、そのことをなんでもないように扱う。女は、抱かれた時に「お前」と呼ばれたことをトラウマとして抱え、今訪ねてきている夫にも、「お前と呼ぶな!」とほとんど理性の無い状態でほえ付く。

 叔父の子を妊娠した女は、新しい男とも対立し、顔にひどい傷を負う。片目を残し包帯ぐるぐる巻きの姿で、叔父の奥さんに薬を盛られ、病院で便と一緒に赤子を流す。怪我を負った顔はほとんどを手術し、片目以外が「つくりもの」であるという。そんな過去の話は女の口から、最初は淡々と、徐々にひどい苦しみを伴って吐き出される。

 夫はぼんやりとその話を聞いているようであるが、義眼を見せびらかし躙り寄る妻には強く抵抗する。落ち着き、一定の距離を置いたふたりはまた淡々と日常の話を開始する。それは、夫が撮っている写真の話や、妻に渡そうとした「自分のいた証拠」となる物品の数々のこと、また、夫が実は超能力を持っている、という馬鹿げた話にまでのぼる。

 夫と日常会話をする間、妻は若い女のようにはしゃぐ。しかし、ふと過去の記憶が蘇ると、また苦しみと諦めを抱き、暗い話へと入っていく。そういった浮き沈みが、何度か繰り返される。やがて妻は、夫に体の代わりに金を要求する。

 妻は現在客をとって金を稼いでいるらしい。店のママには薬を勧められており、妻自身もそれを拒むことはできないだろうと夫に語る。余命わずかな夫は、実は自分はもう死んでいて、魂が体の後ろからそれを見つめているのではないかという想像を妻にもらすが、その「後ろに並ぶ」イメージは妻にとっては、自分に連なるお客たちの姿にほかならない。

 絶望的な妻の状況が際立つ中で、けたたましい非常ベルがなる。女は片目を押さえる。大きな音と共に暗転。明転後、舞台上には妻の片目を持った夫と、包帯ぐるぐる巻きの当時ーーおそらく妊娠して病院にいたころーーの妻がいる。雨は降っておらず、キラキラとした光が窓から降り注いでいる。

 そこは、妻のアパートには変わり無いのだが、水底に沈んでいるのだという。妻の体から溢れ出たらしい水に飲み込まれ、夫もなにもかも、世界は水底にあるのだ。そんな状況をみて、包帯姿の妻は少し、笑う。今、夫に持たれた片目を通して、水底から水面を見上げては、夫と、これからの展望についてぽつぽつと会話する。かすかなおかしみを妻と夫は共有する。

 

 

 

 バリバリの方言に、ボロボロのアパート、場末の夜の店、どうしようもない泥にまみれた絶望。そこに、「つくりもの」の体を表した「アンドロイド」というワードや、SF的美術・音響が並ぶ。そしてラストは、原因不明の(私は女の体からあふれた水、というのは真実だと思っているが、判断は人によるだろう)水害による大団円(?)。相入れなさそうな、SF観と薄暗い日本が、小さなアパートで見事に合致する。ワンシチュエーションであったことが嘘のように、男女の話は多くのイメージを想起させる。それらの暗いイメージが、超常的な死によってつつみこまれるのには、何か希望のようなものがあったし、悲しくもあるがほっとするものを感じた。

 超常的な話が唐突に思えないのは、語られるイメージの量が多いのと、さりげなく介入する超常的な力(例えば超能力)の存在があるからであろう。男女が現実を這いずり回っているのは確かなのだが、もしかしたらこれは死後の世界なのかもと思わせる危うさのバランスがいい。

 役者の力強さも印象的であったが、演出は少々気になる。女が語り始めるスイッチがよくわからず、唐突に病みはじめることについていけなかった。それほどまでに情緒が不安定だったのだろうとも思うが、病気レベルの鬱ならば病院で解決できないだろうかという方向に心情が傾いた(これは私だけかもしれないが、唐突であることには変わり無い)。男のほうもわりとアップダウンの激しい気性で、コロコロと変わる情動には若干引いてしまう。「絶望」の表情や仕草も、やや一辺倒か。好みの問題だと思うが、焦点を合わさないで力なく動く、というしぐさをみると、本当に絶望的状況の時こうなるのかと変な勘ぐりを始めてしまう。

 情緒の過度な不安定さは、肯定的にみることもできるにはできる。舞台上でおこったことはすべて終わった過去のできごとで、その過去の記憶が断片的に再生されている、という見方をすれば、納得の演出である。しかし、そう思うには少し無理が必要だなと感じる。

 それらを抜きにしても、アパートの一室から繰り出すイメージの圧倒的な到達点には感動せざるをえなかったし、それをアシストする美術や音響が最高の舞台であったことは確かだ。特に美術。水いらずの「星」を想起させる、シンプルであるが何にでも映る構造に本当に感心した。

 

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壁ノ花団『水いらずの星』

東京公演 2016年8月25日〜28日 こまばアゴラ劇場

伊丹公演 2016年9月2日〜4日 Al・HALL

作 松田正隆

演出 水沼健

出演 金替康博 内田淳子

#10 『月・こうこう、風・そうそう』の内容と感想

観劇日:2016年7月21日(木)13:00の回

 

※ネタバレしています。  

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 劇作家別役実の新作は、「かぐや姫伝説」を下敷きとした物語であった。別役実には珍しく(はじめての?)、時代劇である。舞台上には竹が生え、また、天井からも竹はぶらさがっている。薄明かりに照らされて、竹やぶがある、といった形だ。私はZ席から見下ろす形でみていたのだが(当日はZ席しかあらず、、)、真正面からみると、もっと広がりを感じる大きさにみえたかもしれない。竹はもちろん、別役の作品の中でいう「電信柱」的役割を担っている(ジ・アトレ インタビューより)。

 

 

 竹やぶに、風の音がひびく。老夫婦が登場する。のちに竹取の翁と嫗であると判明する彼らは、ボロ布のような衣服を纏っている。彼らは、死に場所を探して竹やぶをうろついている。しかし悲壮感は無い。ゴザをひき、持ってきた粟粥を二人ですすり、他愛も無い会話をぽつぽつと続ける。そこへ、美しい娘が駆け込んでくる。「助けてくれ」という娘は、何者かに追われているらしい。しかし、追われている理由はわからないのだという。老夫婦は娘をゴザの上に乗せてやる。やがて、盲目の女(いわゆる、瞽女)がその場にやってくる。娘を探しているようだ。落ち着き払った声で、その娘をかくまうと不幸になる、と告げて、瞽女は去っていく。

 このようなはじまりで別役版「かぐや姫」はスタートする。別役版の姫ーー翁たちにかくまわれた美しい女ーーは、竹の中にいるのではない。「兄と結ばれ、兄とまぐわう」という忌むべき予言を背負った状態で、翁たちの前に現れる。

 また姫は、「風魔の三郎」という、竹やぶにたびたび現れる殺人鬼(この表現でいいのか?)への生け贄でもある。風魔の三郎は嫁探しをしている中で、女を得ては斬り捨てるという行為を繰り返し行っている人物だ。つまり、「生け贄」という書き方をしたが、その実、姫は風魔の三郎にあてがわれた嫁でもある。

 風魔の三郎と姫はしだいに共にすごすようになる。しかし、姫にはあの予言がつきまとう。姫は、竹取の翁という人買いに売られた娘であるがために、実の兄が誰であるかがわからないのである。翁によれば、姫はもともと、いつのまにか家の前に捨て置かれていた赤子であったのだという。予言をした瞽女は追い打ちをかけるように、「お前が結ばれた者がお前の兄となる」と姫に語りかけ、予言からは逃げられないことを強調する。

 一方風魔の三郎は、自身の「ねむりあそび」(夢遊病的なもの)に関して悩みを抱えていた。ねむっている間に、体が勝手に人を殺してしまうのだという。このままでは姫を殺してしまうという思いと、姫とまぐわった自身が「彼女の実兄」であることを避けるために、三郎は自身の名を捨て、新たな名前を得ようとする。登場人物のセリフのみから存在を匂わせる最強の兵、ウンテンのジュウザ(名前うろ覚えかもしれない。ウンテンは雲天? 意味や由来を理解できなかった。以降「ウンテン」と表記します。)を倒し、新たなウンテンとして生きようというのだ。

 ウンテンの強さは桁違いであり、その強さの理由は、「弱い者にも強い」部分にあるという。かつて一介の兵士がウンテンに勝つために、赤子を用意させ、それを矢で射り、弱い者に勝つという力を手にいれた。そしてウンテンを倒し、現在のウンテンに成り代わって最強の座についているのだという。

 風魔の三郎と結ばれた姫は、身ごもった子供を自身の体ごと三郎に差し出し、矢で射させようとする。三郎が雲天に勝つには、弱い者に強くあらねばならないからだ。姫の腹に弓を向けた三郎は、決死の思いで矢を逸らす。三郎には赤子を射ることはできない。

 姫は我が子を死の淵においやった罪を償うとして、自身の目を破る。その後予感されるのは、身ごもった子を彼女が育て、やがてその子を翁の家に置いていき、そして瞽女として、成長した子へ予言を与えるという未来であるーーつまり、「兄と結ばれる」と予言を残した瞽女は、姫の未来の(または過去ともいえよう)姿であったのだ。また、三郎のその後に関しては、ウンテンに挑むが死亡した、と後日談が語られる。

 

 

 以上が大雑把なあらすじになる(これで大雑把!)。この逃げ出せない絶望のループの舞台となる竹やぶ一帯は、ミカドたる人物に治められているようであるが、ミカドはそこで起こったできごとを耳にしては、「そうか」とつぶやくだけである。このループに救いは無い。

 もし三郎が赤子を射ったのならば、忌まわしい予言のループを抜け出せたのだろうか? いや、それでも結果が変わることはないだろう。ウンテンという空白の存在がそもそも終わらない構造を持っているがために(次のウンテンがずっとひかえている)、三郎がウンテンに成り替わったところでまた次の三郎が現れるだろう。これは余計な妄想なのかもしれないが、その結果の先の未来に、また別の姫が誕生する……というように予言が続いていくことは想像に容易い。それがために、三郎が必死になって矢を逸らしたという出来事がひどく虚しく悲しく思える。結果は変わらないのだから。

 矢を射る/射らない、というような分岐ルートの予感は他の箇所からも感じることができる。たとえば、姫の兄と名乗る男の存在からである。姫の母は、ウンテン征伐のための矢をその男に託していた。結果的に三郎がその矢を手にすることとなったが、男がウンテンに挑む未来もありえたのかもしれない。だが、誰がウンテンを殺したところで結果は変わらない。このループには分岐はありえるが脱出口はない。

 脱出が不可能な理由は、登場人物たちのキャラクター性も関係している。この別役オイディプス闇ループに登場する人物たちは、とにかく流されて生きている。姫と三郎の婚儀のシーンなんかは、若い二人のたどたどしいやりとりにキュンとする(?)ポイントでもあるのだが、別役の描くキャラクター性が良く出ている場面とも言える。

 二人は互いに言う。「ドキドキしている。隣の女が、嫁になろうとしているのか、殺されようとしているのか」「ドキドキしている。隣の人が、私を嫁にしようとしているのか、殺そうとしているのか」(セリフはうろ覚え)。前者が三郎で後者が姫のセリフである。聞くに、新手の吊り橋効果かとも思うが、お互い、自分がどうしようとする、ということでなく、相手の出方を気にしているのが少しひっかかる。またここの場面で、彼らは、目の前にある物ーー婚儀のための料理(酒や黒豆)ーーをベースに会話を進めていく。「酒があるね」「黒豆があるね」「飲んでごらん」「食べてごらん」……などなど、彼らは物をきっかけに口を開く。まわりの環境に突き動かされて言葉や行動が生まれる。短刀があったらそれを使うし、粟粥があればそれを食べるのである。周囲の世界が、彼らを「そうする」ように縛り付けているようにもみえる。このような状況は、別役作品ではままあることなのだが、今作では特に、その設定が「そうなるしかない」という絶望度を高める。

 登場人物たちは、「そうする」ように流される。三郎はねむりあそびによって人を殺したと発言しているが、その実、ねむりあそび中にも彼の目は見開かれている。原因不明の衝動は彼の意思となり、人を殺害するに至る。姫は罪とわかっていながら、我が子を弓の前に差し出す。死に場所を探していた翁たちは、もはや生きているという自覚もなくしながら、ループに巻き込まれるがままになっている。彼らは勝手に、結末のわかった悲劇へと向かっていく。

 

 

 『月・こうこう、風・そうそう』を観て改めて驚愕するのは、別役実のブレなさである(上演された作品をみたことは数えるほどしかないので、戯曲を読んだだけの判断であるが)。雰囲気としては、『赤い鳥の居る風景』や『マッチ売りの少女』などの、初期作品にかなり近いのではないのだろうか。戦後日本への鋭い考察(または批判)と評されることの多い初期作品群は、重々しい「罪」の意識と、それに耐え続ける人物とを舞台上に表す。ただ、初期作品のキャラクターたちが耐えることにより意思表示をするのに対し、今回のかぐや姫は、終わることのない耐える日々にただ身を落とすだけである。本当に救いようがない。

 途中途中笑える箇所があったのが観客的には救いだったかもしれない。姫・三郎役もフレッシュで恋愛を応援したくなる感じがある。「ぼんやりと」というト書きがみえてくるようなラストの翁・嫗の演出はやりすぎ感もあるが、あのぼうぜんとするようなレベルで私自身もいろんなことに無関心であるので、やばいかもしれないとふと自覚的になった。「気付いたらそうなってた」ではいろいろと遅い。

 

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『月・こうこう、風・そうそう』「かぐや姫伝説」より

2016年7月13日〜7月31日 新国立劇場 小劇場 THE PIT

作 別役実

演出 宮田慶子

出演 和音美桜 山崎 一 花王おさむ 松金よね子 増子倭文江 橋本 淳 今國雅彦 稲葉俊一 後藤雄太 草彅智文 竹下景子 瑳川哲朗

 

#9射手座の行動プロデュース 行動・2 『三人のホラー ふじきホラー、鳥山ホラー、柴ホラー』 の内容と感想

観劇日 2016年7月14日(木)19:30の回

 

 

※ネタバレの羅列です

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 射手座の行動、は、ふじきみつ彦による一人演劇ユニットである。ふじきの演劇は、昨日の祝賀会という演劇ユニットではみたことはあるが、射手座の行動ははじめて。今回の企画は、ワワフラミンゴの鳥山フキ、ままごとの柴幸男と共に、ホラーの短編を上演するというもの。

 関係はないが、この日(7月14日)は激しいゲリラ豪雨と、胃の鈍い痛みに襲われながらの観劇となり、内心おだやかではなかった。

 

 雨の影響のためか、開演予定時間を少しすぎたあたりで、ゆっくり読み上げられる会場アナウンス。その後、「し〜ば〜ほ〜ら〜」(松本人志のゾッとする話風)との声がして、開演。

 

1、柴ホラー『死なない死体』(出演:北村恵・柳沢茂樹・吉田亮)

 男がテーブルの上に、仰向けの状態で寝ている(倒れている)。腹には包丁がささり、血が服に染み出している。部屋に女が入ってきて、倒れている男に文句を言う。「なんでいんの」とか、「出てけよ」とかなんとか。女と男はかつて付き合っていた仲のようだが、女が男を刺したことで、そして、男が死んでしまったことで、その仲は解消されているようだ(少なくとも女にとっては)。死んだ男は、「動けないから出ていけない」「努力しても無理」というようなことを言う。また、へらへらとしている(情けなくて少し気持ちが悪い)。女は自分の歯をハブラシで磨きながら、ずっと迷惑そうにしている。

 男の死体を片付けるためにはまず解体しなけりゃという話の運びになり、女は、男のかつての友人を呼び出す。「久しぶり」と会話する男の死体と友人。しかし態度の悪い女に、しだいに友人は腹を立て始める。死んでいる男に言う。「あんなやつ別れた方がいいって!」そして男に悪影響であると判断したのか、友人は女を殺害し、その死体を仰向けの状態で床に転がす。「殺してんじゃねーよ!」と女。

 悪態をつく女に、死体の先輩である男は、「だんだんなにもかもどうでもよくなってくるから大丈夫」というようなアドバイスをする。女は、どうでもよくなることにイライラと抵抗する(その中で「生きたい」とさりげなくぼやく)。しかし、女もだんだんなにもかもどうでもよくなり、「生きとし生けるものが愛しく」思えてくる。

 (長々と内容を書いてしまったが、近々「戯曲公開プロジェクト」の一環で、戯曲全体が公開される予定のようだ。詳しくはそちらを参照するのが一番である)

 

 

  タイトルからして、あははという感じである。劇作家の別役実はかつて、コントの基本は死体からのようなことを言っていて(手元に本がなく、きちんと引用はできないが、『別役実のコント教室—不条理な笑いへのレッスン』では死体からはじめるコントの書き方を指南していた)、本作は基本をおさえた優等生作なのだろうなという印象。ツッコミ不在でぐるぐるまわる会話と、独特な死の軽さ。ただ、死者を冒涜しているわけではなく、死者を生者の延長の、「生者とは少し違うモノ」として捉えているような感覚。

 死ぬと、「いろんなことがどうでもよくなる」らしいので、反対に、「いろんなことがどうでもよくなった」状態は死んでいるのと変わらないのかもしれない。また、「いろんなことがどうでもよくない」状態こそが生きているということなのかもしれない。

 しかし、ここにいる登場人物たちは人を殺す動機に対しては敏感だが、殺すこと自体には「どうでもよさ」を感じているようにみえる。執着が偏向的なのである。不条理に生きる彼らは生きているようでも死んでいるようでもある。

 わざと繰り広げられる日常会話はあまり好きになれず。しかし、このほんわか死生観は魅力的。死んだら何もかも愛しくなるのかーと浸りたい気もするが、同時に恐ろしさも覚える。いろんなことがどうでもよくなったらおしまいだ。

 

 

2、柴ホラー『おばけ指南』(出演:有吉宣人・名児耶ゆり・濱野ゆき子)

 閉園後の遊園地、おばけ屋敷の中で、お化け役の二人が人をおどかす練習をしている。一人は、ベテランお化け役の女。もう一人は、新人バイトの男。二人とも白装束をきている。先輩お化けは、貞子風に長い髪を前に垂らしていて、始終お化けのテンションである(恨みのこもったようなささやき声を出し、常に中腰)。そのテンションのまま、新人バイトにお化けの極意を教え込んでいる。熱意のある先輩お化けとは打って変わって、バイトの男はなんとなく雑に教えを受けているようである。

 バイトの予行演習として、バイト男が先輩お化けを驚かそうとする。しかし先輩のいるはずの場所に現れたのは、見ず知らずの女だった。その女は、先輩お化けに元彼を殺されたと言い張る。そして、「あなたも殺されるわ」と男に伝える。元彼の死因は、お化け役に徹しすぎたためだったらしい(もう少し詳細が語られていた気もするが、失念、、、)。つまり、先輩お化けに現在しごかれているバイト男も危険だというのだ。

 先輩お化けも現れ、殺してない、殺した、の言い合いが、バイト男も含め昼ドラのように行われる(BGMもそれを盛り上げる)。その言い合いの果て、女が先輩お化けを包丁で刺してしまう。バイト男に、「あなたはお化けの逸材である」ということを伝え、絶命する先輩お化け。バイト男は遺志を継ぎ、情念を燃やす。そして、男も女も立ち去った後、先輩お化けの死体が動きだす。自分を刺した包丁を持って、幽霊のようにさまよいはじめる……。

 

 

 『死なない死体』をみた直後であったためか、最初からお化け役の二人が死人だと思って観てしまい、勝手に混乱してしまった。しかし、恋人を殺された女も、幽霊の様に登場したり、もちろん先輩お化けは常に幽霊っぽいし、あれ、この人も幽霊……じゃなかった!という予感に揺さぶられる体験ができたので、それはそれで良かったのではと思う(ホラーにおいて予感は大事)。最後のシーンで、幽霊の誕生をみるわけだが、あれ、これは、本物……(演劇だけど)というヒヤッとした静けさが楽しい。

 名児耶ゆり(恋人を殺された女役)は出てくるだけで非常に強烈なインパクトを残していく女優だなと思う。

 

 

3、鳥山ホラー『スプリングス(ピーク)』(出演:有吉宣人・島田桃依・濱野ゆき子・吉田亮)

 何を言っているのかわからない小汚い老人と連れ立って現れる女。老人は何かを言い残し、女は、「はいはい」といったような対応で老人が去るのを見送る。女は彼氏らしき人物とその場で落ち合い、会話をしようとしている。彼氏は一向に何も話さない。また、何もしようとはしない、無気力そうな様子がうかがえる。女は一人ではしゃいでずっと彼氏に話しかける。やがて彼氏が小箱を取り出し、女の方に向ける。「くれるの?」といって、女は受け取るが、その瞬間彼氏は箱を奪い取り、捨てる。これが何度か繰り返される。春一番のような風が吹き抜ける。そして、紙袋をかぶり、オノを持った男が現れ、襲い掛かってくる。彼氏は殺される。その後女が攻防を繰り広げる中、雷に打たれてオノ男が倒れる。女が生き残る。BGMはサスペリア

 

 

 断トツに意味がわからなかった鳥山ホラー。この風が吹く一帯には、何か「そうなる」磁場のようなものが働いていて、「そうなる」ことはこの場にとってあたかも自然である、というような見えない縛りを感じる。

 何も話さない彼氏も、それに話しかけ続ける女も狂気じみていて怖いし、オノを持った人物なんてわかりやすくホラーだ(サスペリアのBGMだって)。しかし、この作品の怖さはそのような明確な対象にあるのではなく、怖い対象が移り変わっていく不安定さや、見えない法則のある「この場所……やばい」感にある(霊感がなくともわかる)。理解できない演劇はいくつかみたことがある気がするが、理解できそうもないなと諦めさせるロジックがはたらいているものはほとんどはじめて(一回だけ観たことのある野鳩、は近いかもしれない)。しかもそのロジックに従順に従っている人間をみると、洗脳された人間をみているような生々しい感覚の怖さがある。次の作品もこの『スプリングス(ピーク)』の世界観を引き継ぐ。『スプリングス(ブリッジ)』には、ピーク版よりかなり長い上演時間が割かれる。

 

 

4、『スプリングス(ブリッジ)』(出演:北村恵・多賀麻美・名児耶ゆり・原口茜・柳沢茂樹)

 ブリッジ版では、女二人がその「やばい場所」に旅行しにきた場面からはじまる。女二人の会話は唐突でロボット的な感情のこもらない棒読みであある。なおかつ、物腰は丁寧である。

 詳細を追えない情報量だったために、覚えているブリッジ版の要素を書き連ねようと思う。

・二度ほど老人が出てきて(全て違う役者がやる、殺された人物がこの役を担う?)、「そっちいっちゃなんねえ!」とその「場」にいる人物に伝える。「こっちこい!」と言って幕間に消える。

・女二人が、「手を切られる夢」について話す。

・「ピータンさん」という人(?)物からの手紙を受け取っている人物が複数いる。

・「ピータンさん」からの手紙は白紙であり、それは、手を切られたから文字がかけないためらしい。

・幽霊的な何かに腕をひっぱられ、手を切られそうになった女がいる。もちろん嫌がってふりほどくが、その窮地を脱した後は、むしろ手を切ってほしそう。

・会話にたびたび「うさぎ」というキーワードが登場する。

・完全に人間の形をした、何を考えているかわからないロボットが出てくる。

 ……などなどの要素が繰り広げられ、最終的には、老人が去った方向からカップルのような男女が登場、無表情のまま「あははははははは」と笑い声をあげ、一人の女を隅においつめる。

 

 

 (ラストまた雷が落ちたのだっけか、間をおいて書くと本当に記憶中枢が危ないことを感じるが、)とにかく何が起きているのか理解する隙もなく、矢継ぎ早に意味深長なワード・行動が飛び出す。「手を切る」などはそれだけでゾッとするし、ピータンさんは手がないから白紙の手紙を送ってくる、という謎理論がまかり通るのはよくわからない。「うさぎ」というアリス的単語も一体なんであるのか。グリム童話的メルヒェン世界を大人が大真面目にやるとこうも不気味なのかという感触。

 しかし始終笑える。例えば唐突に現れたロボットの存在に入れられたツッコミは、別の一人の女優の「なんだロボか……」という一言のみであったし、そもそもセリフひとつひとつの抑揚が現代口語のものではなく、テレビでよくある再現ドラマの子役が発するようなものであるし(伝わるだろうか)、とにかくおかしい。

 女優たちも、上品であり、色気があり、清楚であり、本当に魅力的にみえる。それでいて頭がおかしくもみえるのだから、すごい。怖い。

 

 

5、ふじきホラー『クリーミーマミ』(出演:有吉宣人・島田桃依・多賀麻美・濱野ゆき子・柳沢茂樹・吉田亮)

 ある夫婦の家に、双子の赤ん坊が生まれた。その双子をみに、妻の弟(無職)と、その彼女がやってきている。日常会話の中で語られるのは、最近近所で猫の首がおちていて、それにサワガニがたかっていた、という物騒な話や、以前起こった男子児童殺害の事件の話(この児童にもサワガニがたかっていた)。そして、近所に住んでいる夫婦がその男児殺害の容疑者としてあがっているというウワサ話。

 折よく、その近所に住んでいる容疑者夫婦が、双子の親夫婦のもとを訪ねてくる。出産祝いを持ってきたらしいのだが、しつこく家に上がりこもうとする。双子の父は、親戚がきていて今日は帰ってほしい、と伝えるも、「それ、嘘だよ」といって玄関から入る容疑者夫。「ほらね」と言いながら、双子の親夫婦、その弟と彼女、そして双子の赤ん坊がいるリビングへと軽々と侵入してくる。

 容疑者夫婦は出産祝いに、サワガニの唐揚げを大量に持ってくる。猫の首や男児殺害の話を聞いたその場の全員が食べたがらない。霊感があるという弟の彼女がサワガニをつまむと、吐き気を催しトイレに向かい、戻ってこない。

 唐揚げ騒動からはじまり、ギクシャクとする会話。容疑者夫婦は、帰る前に赤ん坊を抱かせてくれとせがむ。しぶる双子親夫婦だったが、それさえさせれば帰ってくれると思い、それぞれに子供を預ける。子供をあやしつつ、容疑者妻がこう言う。「ひとりくれませんか?」

 当然拒否する周囲であるが、早速双子に対して異常な愛情を向け始める容疑者夫婦。しかし、片方の子供は自分たちに似ていない、という理由で、その赤ん坊を手の中から地面へ落下させもする。そして、自分たちには子供をもらう権利があるということを主張し始める。男子児童が殺された時、嬉々としてテレビに映った双子親夫婦のせいで、容疑者に仕立てられてしまったと言うのだ。また、自分たちにも子供がいて、裁判やらなにやらやっている間に流産してしまったということも告白する。

 その後、トイレから戻ってきた霊感持ちの彼女が、子供を渡したほうがいいかもしれない、と言い出す。「私、(霊感で)見えちゃったんです、男の子を殺した犯人……」そして、彼女が指し示した人物は、双子の父であった。

 一転して男子児童殺害事件の容疑者となる双子の父。双子親家族には暗雲が立ち込める。一方、子供を手に入れた元・容疑者夫婦は幸せそうである。そして、ラスト、その元・容疑者夫婦の妻の実の妹が、霊感のある、例の彼女であったことが明かされる。全ては子供を手に入れるためのだまし討ちだったのである。

 

 

 ラスト付近はほとんど展開が読めるのではあるが、そこに至るまでの伏線の置き方が丁寧。例えば、弟が無職であり、それをいじる日常会話だって伏線ともいえる。そんな男と付き合う彼女ってどんな人なの?とふと頭に過ぎらせておくのだ。また、猫の首の写真をケータイに保存していたという双子の母のさりげない暴露も、もしかして異常者は双子一家の方なのではという予感を微量ながらもちらつかせていて、うまい。

 また、ただの人形で表された双子の赤ちゃんの行方に、本当にハラハラさせられる。昨日の祝賀会をみたときにも感じたが、漫画的でありながら「こういう人っている!」と感じさせる細かい人物描写や演出がとても丁寧。

 ただ、他にも外堀を埋めている設定なのかわからないが、霊感女の証言で容疑者が変わるということは考えられにくいことと、オチが腑に落ちるもの−−鳥山とは対照的な−−だったことが、少し物足りない気にさせる。

 ちなみに、クリーミーマミというタイトルに関しては、双子の母がクリーミーマミみたいな雰囲気、という要素としてセリフ中に出てきていたにすぎない。ただ、クリーミーマミというアニメ、私は内容を知らなかったのだが、少女が魔法で変身してアイドルになり、正体を隠しながら二重生活を送るというものらしい。なるほど……。

 役者たちは、それまでの1〜4の話でみせてきた演技とはガラッと変わったものをみせてくれていて、すさまじい。器用である。

 

 

 三者三様のホラーで、それぞれ楽しめた。そしてやはり、どんなカラーにも対応していく役者たちの変わりように驚く。

 

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射手座の行動プロデュース 行動・2 『三人のホラー ふじきホラー、鳥山ホラー、柴ホラー』

2016年7月13日(水)~18日(月・祝) 小劇場楽園

脚本:ふじきみつ彦、柴幸男、鳥山フキ

演出:ふじきみつ彦(ふじき作品・柴作品)、鳥山フキ(鳥山作品)

出演:有吉宣人、北村恵、島田桃依、多賀麻美、名児耶ゆり、濱野ゆき子、原口茜、柳沢茂樹、吉田亮