ノート

観劇感想などです

#8 青年団 第75回公演『ニッポン・サポート・センター』 の内容と感想

観劇日:2016年7月5日(火)14:00の回

 

※ネタバレしかないです!

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 8年ぶりとなる平田オリザの新作書き下ろしである。まず、当日パンフレットにあった、平田の言葉が、とても印象的であった。

 

 『ニッポン・サポート・センター』という題名は、敬愛するクレージーキャッツの『ニッポン無責任時代』からイメージした。貧困も格差も介護も虐待も、不謹慎なほどに笑ってしまえる作品を創りたいと思った。今の時代に必要なのは、おおらかさだと思うから。(……)

 (……)貧困も虐待もDVも、いずれも深刻な問題だが、眉間にしわを寄せてその深刻さを語るのはジャーナリストに任せて、私はもう少し、その問題の奥底を探りたいと思う。ゆっくりと滅びの道を歩む日本の、影絵のような芝居になればと願っている。

 (当日パンフレット「『ニッポン・サポート・センター』上演にあたって」より抜粋)

  この言葉通り、本作はいろいろな社会問題を抱える日本の苦を露呈させ、それについて考えようという作品では決してない。日本に生きる私たちの現状を丁寧にうつしとり、客観的に考える間(ま)を与えてくれるものである。

 

 舞台は「サポートセンター」といわれる、生活困窮者や虐待の被害者などの相談事をひきうけるオフィスである。運営はNPO団体が担っている。そのオフィスには、NPOインターン生や、地域の定年後のお年寄りが訪れるなど、幅広い年齢の人の出入りがある。舞台、というより、そのオフィスの作りは特徴的で、みっつの防音室が備えられている(舞台美術として実際の防音室使用していたかは不明、演技でカバーしていた?)。その防音室は、相談事をしに来る者が現れた時に、主に使用される。NPOの職員がミーティングに使用することもある。防音室には窓が付いているが、ほとんどブラインドを閉めた状態で使われる。つまり、客席含む防音室外には、中の音は聞こえないし、見ることもできない。また、それぞれの部屋の外側にはインターホンが設置してあり、用事がある場合には、それを押すことで中にいる人物に知らせることができる。

 その3つの防音室があるオフィスからの場面転換はない。センターの窓口も兼ねているこの溜まり場では、だらだらとした、ほのぼのとした日常会話が繰り広げられる。その会話から、登場人物たちのキャラクター像がゆっくりとみえてくる。

 会話で語られるのは、大なり小なりの悩み事や抱えている問題の話、またそれに関する噂などだ。センターの女性職員の夫が盗撮容疑でつかまり、そのせいで女性職員が辞めるのではないか、とか。また、出入りするお年寄りのうちの一人息子が失業した、とか。ある職員が他の職員のことを好きである、とか。そこに、相談者として、離婚問題を抱えた夫婦がそれぞれやってきたり、勘違いが多く、激昂の仕方が激しい女性が絡んできたりする。しかし、夫の盗撮容疑によって女性職員がやめるかどうかの本当のところは、防音室の一室で、上のものと話される。また、失業した一人息子の職業斡旋の説明も、防音室の中で行われる。数々の相談者の相談事だってもちろん、防音室の中で語られる。何かの問題が、どのようになっていて、どうしていく、という内情は、ほとんど観客に見えず、聞こえない形で繰り広げられるのだ。

 防音室外のセンターの人々は、防音室内で行なわれているだろうことに対して心配し、おろおろしたり、また、見当違いの予想で盛り上がったりする。「サポート」してはいるのだろうが、それぞれがそれぞれのより良い形におさめようと動いている、と言った方が正しいだろうか。

 終盤になると、防音室内のできごとに関係する、知らなかった事実がぽろぽろと会話に浮上してくる。離婚問題に関するDV疑惑や、失業した男の辞職理由が、海外で薬漬けにされた子供をみたからであることなどだ。そして、すべての防音室が使用されている状態のオフィスで、その失業した男の父親である老人が言う。「みんなそれぞれきついんだよ、コイツよりはましだ、って思っているだけで」(かなりうろ覚えなので、例によって正確ではないが、このような意味合いのセリフ)。そして、ぽつりぽつりと、オフィスにいる全員で、「やまと寿歌」を歌う(歌詞はこちら)。一語一句はっきり歌われるこの歌は、かなり重苦しく響く。一部の歌詞を引用する。

クルマ パソコン ケイタイ電話

原発 軍隊 なんでもあるさ

日の丸かかげて 歌え君が代

ほんに この国 よい国じゃ

あとは なんにも

いらん いらん

よけいな モンは

いらん いらん ちゅうに……(リンク先より引用)

 

歌の中でも、ここの歌詞の部分が一番力を入れて歌われていた。

 

 

 

 丁寧でさりげない演技は、本当になんだこれ……という精巧さであった。例えば、おどおどどしたインターン生の絶妙な空気の読めなさは、物語上にこそ関わってこないが、彼女が抱えているであろう悩みの存在を予感させる。しかし、センターの職員が少々デリカシーに欠けるのと(カウンセラーが相談者に「え?」と真顔で聞くことなどないのではないか)、お年寄りが、「こういう老人いるよね」という様に、大げさに描かれているのが気になった。後者に関しては、「サポート・センター」なのではなく、「ニッポン・サポート・センター」なのであることを意識させるためであろうか(そのような演出により、「日本の縮図」感は増していたように思った)。前者に関しては、水面下の会話のできなさ−−言葉でしか通じ合えない / 言葉にしないと伝わらない、というストレスを大いに感じた。しかし確かに、私自身水面下のことを気にしない場合も多い、例えば政治問題や、自分に直接関わらないと思い込んでいる事柄について。

 『ニッポン・サポート・センター』はまさに、自分自身にしっかりとは届いてこない、しかし近くにある問題との距離を考えるきっかけとなる作品である。そうとしか言いようがないものを感じた。防音室の中で何が起こっているのかはわからないが、そこは防音室であるだけで、別世界ではないのである。少し聞こえづらく、見えづらいだけなのである。

 そして、あえて「原発」や「軍隊」というワードを強調する姿勢からは、焦りや怒りというものが伝わった。静かな作品ではあり、その冷静さからは自分を省みる機会を与えられる。しかし同時に、「もはやここまできている」という焦燥がじわじわと伝わってくるのも確かなのだ。

 千秋楽の前日、7月10日が参議院選挙の日でもあったことが、作品の捉え方にも影響している。

 

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青年団『ニッポン・サポート・センター』

2016年6月23日〜7月11日 吉祥寺シアター

作・演出 平田オリザ

出演:山内健司 松田弘子 志賀廣太郎 永井秀樹 たむらみずほ 辻 美奈子 小林 智 兵藤公美 島田曜蔵 能島瑞穂 大塚 洋 大竹 直 村井まどか 河村竜也 堀 夏子 海津 忠 木引優子 井上みなみ 富田真喜 藤松祥子

#7 中野成樹+フランケンズ『えんげきは今日もドラマをライブする vol.1』 Aプログラム 森のカヴァー の内容と感想

(観劇日:2016年6月25日(土)19:00の回)

※ネタバレしかないです!

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※『えんげきは今日もドラマをライブする』(以下『えんげきドライブ』)にはAプログラム「森のカヴァー」と、Bプログラム「戯曲のノンストップ・ミックス」の二種の公演がある。

 

 Aプログラムは、「ナカフラ流カヴァー・アルバム」であるらしく、3つの戯曲が上演される。

 

1、『夏の夜の夢』(W.シェイクスピア、1595年ごろ初演)

 当日パンフレットにもあるように、市民団体と労働者のレイヤーが、原作に重ねられている。

 役者たちは全員いまから眠るよという雰囲気の部屋着を着ている。そして手にはクッションを抱えている。部屋着の役者たちは、それぞれの役柄を演じる。ただし、パック役の人物はひとまずは登場してこず、見えないパックに向かって役者たちが声をかけるというようになっている。夏の夜の恋騒動が起こっている中、ふと舞台上に、「アースコンタクト」というジャンパーを着た女が現れる。他の役者たちはその存在を気にせず、芝居を続けている。そんな調子の中、女はたびたび舞台を横切っていく。片手には氷結。気だるそうに歩く。時には「アースコンタクト」のでかい看板を持ってティッシュを配っている。他の役者たちは、夏の夜の夢をすすめながらも、ときおり、女の配るティッシュを避ける。

 市民団体が登場する。団体名は失念したが、SEALDsに似た響きであったことは記憶している。代表の若い男は、『夏の夜の夢』で劇中劇を上演する「ボトム」という人物であり、市民に、演劇を上演することを宣言する。ボトムの横では、団体員のような女が、市民を険しい顔で眺めながら(睨みながら)、「あなたたちが主役です」というような内容のパネルを掲げている(正確な文面は失念してしまっただが、大意はそのようなところだったと思う)。

 『夏の夜の夢』の妖精パックが媚薬を扱う場面では、「アースコンタクト」の女がパックとして登場する。抑揚のない声で、氷結を持ったテンションをそのままに、媚薬をふりかける。媚薬をかけられた人物たちにより、恋の関係図は複雑になり、事態の収束をはかった妖精王により、全員が眠らされる。すべてが夢であったかのように。

 一方市民団体は演劇の上演準備をすすめ、街なか(というか、コンビニの中、もっと言うと、ファミマ)で練習をしている。藤谷と呼ばれる劇団員(藤谷理子が演じる)や、福田と呼ばれる劇団員(福田毅が演じる)、そしてボトムは悲恋の物語を演じる。その練習中に、刃物を持ち、血まみれになった「アースコンタクト」の女がふいに現れる。その瞬間、眠らされた役者たちは通り魔にやられた負傷者(もしくは刺殺体)となり、ボトムら市民団体による演劇は中断せざるをえなくなる。

 

 最後の場面で、演劇は現実におこるショッキングな出来事に負けたのだろうか。しかし、そのショッキングな通り魔事件も、『えんげきドライブ』の演劇上のできごとである。演劇はもとより、客席で携帯電話が鳴るくらいで壊れ得るほど弱いのであるが、反面、携帯電話がなったことであったって、フィクションの中に取り込むことができるという強さを持っている。そして、「再演」することも可能である。通り魔事件のわからなさを今一度感じることができる。

 

2、『華々しき一族』(森本薫、1950年初演)

 原作戯曲は青空文庫で全文読むことができる(こちら)。映画監督の師である鉄風の元に、須貝という男は居候している。鉄風には三人の子がおり、そのうちの一人、長女である美伃(みよ)は再婚相手の連れ子である。須貝、美伃、そして義妹である未納(みな)、その実兄である昌允(まさたね)、そして鉄風の再婚相手、諏訪……それぞれの想いが錯綜し、奇妙な人間関係が出来上がる。 想い人のすれ違いや、相手を思いやるがための行為、そして想いから逃れるための行為により、登場人物たちの恋愛関係は、収まりどころをなくす。須貝は、年齢の近い美伃、未納のどちらでもなく、その母である諏訪に想いを寄せ、それを打ち明けてしまう。そして、自ら家を去っていくこととなる。

 一本目の『夏の夜の夢』ではビジュアルと、一部のセリフが現代のものになっていた。それに対し、『華々しき一族』はほとんど戯曲に忠実である(ビジュアルに関しては、昔とは思えないが、現代でもないような服装をみなしていたように感じた)。ただ、青空文庫に掲載されている、美伃がすすりなき、「妾、あの人に、いけなかったわ。……ほんとうに、いけなかったわ。」というシーンでは、美伃は泣かず、静かに階段を登っていくというように変わっている。そして、このセリフを最後に、この演目は終了した(それ以降のセリフは全てカットされていた?)。

 

 ラストシーンの、斎藤淳子演じる美伃は、明確に悲しさを出していたわけではなかった。加えて演目がそこで終了することにより、美伃の本心は、本当はどこにあるのか? 他の登場人物はどうか? などと、実際に描かれた物語や、吐かれたセリフ以上のものを勘ぐってしまう。喜劇のようでいて、何か恐ろしい雰囲気を感じた。

 小林美江演じる諏訪は、きちっとした格好になぜかカジュアルめなサンダルを合わせていて、これは意図したものかは不明だが、なんとなく隙がある女性にみえた。しゃべりや動作はことごとく丁寧である。私はあまり役のうまい下手がわからなかったりするのだが、それでも本当に役者はすごいと思わざるをえない。

 

3、『マキシマム・オーバードライブ改』(誤意訳:中野成樹、2012年初演)

原作:『亭主学校』(モリエール、1661年初演)

 誤意訳とは意訳、と誤訳、のかけあわせであり、この作品では『亭主学校』の話が現代のような空間に移っている。花嫁修業のために監禁を強いる男、スガナレルから逃れるため、妻イザベルが騙し打ちで脱走を試みる、という物語である(ざっくり)。

 

 面白おかしい滑稽な芝居、という雰囲気であるが、このように古い戯曲を現代(っぽいところ)で再現すると、言動に不条理さを強く感じる。そうなるべくしてそうなってしまう流れ(お約束!)は、ふと気づくと少し怖い。しかしながら、あるべき夫婦の姿にほっこりし、恋愛いいじゃないと安心したり。

 ナカフラはかねてよりこのような誤意訳で、現代的に噛み砕いた「ような」古典をやり、誰にでも愛されそうな雰囲気を放っている。しかし、実際のところ「わかりやすく」「嚙み砕く」なんてことはしていないのであり、古典戯曲を解析しバラバラにして再構成しているわけなので、かなりハードな作業の上に成り立っているのではと思う。古典の雰囲気を持ちつつも現代の劇場にはまる、不思議な二面性はこの劇団以外では今の所みたことがない。

 

 

 終演後に振り返ると、古くは1595年頃、新しくは2012年の戯曲が存在していたことに改めて驚く。そしてこれらが上演されたのは2016年現在であり、どこへでも自由に行き来できる演劇の豊かさを一身に感じる作品群であった。

 

 

 余談であるが、今回の公演では「ドラマ席」と「ライブ席」という二種の席があり、私は「ライブ席」を選択。ものすごく面白かった。ライブ席は舞台の下手側、横に席が設置してあり、舞台との距離も近く、そして高さもほぼ同程度。基本的にドラマ席を正面として作品はつくられている(だろう)ので、ライブ席にいると、観客であるというより出演側に立場が近くなっている錯覚に陥る。物語にひきこまれるまでもなく、役者と同一線上に勝手にいたという感じ。最初は慣れず、「うおーー」といちいち面白がっていたが、三本目になるとすでに慣れていて、通常の観劇のようにみることができていた。慣れは怖い。

 

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中野成樹+フランケンズ2016 『えんげきは今日もドラマをライブする vol.1』

2016年6月18日〜26日 東京芸術劇場シアターイースト 

誤意訳・構成・演出:中野成樹

ドラマトゥルク:長島確

出演:村上聡一、福田毅、竹田英司、田中佑弥、鈴鹿通儀、洪雄大、石橋志保、小泉まき、斎藤淳子、北川麗

ゲスト:小林美江、山田宏平、原田つむぎ(東京デスロック)/ 佐々木愛、藤谷理子

#6.5 blog再開いたします

 t永といいます。観劇が相変わらず好きなこともあり、ブログぼちぼち再開してみます。数年前数少ない記事をだいぶ消したので今の所何のブログかよくわかりませんが、楽しく演劇の記録と感想を書いていきたいです。今度も三ヶ月は続くといいなと思います。

 

 「そよそよ族ノート」、というのは、別役実さんが書いた「そよそよ族ノート」からまんま勝手にとっております。別役さんの「そよそよ族ノート」では、「そよそよ族」に関する情報が一応まとめられていますが、この謎の一族に関してはいずれこのブログでも説明してみたいなと思っています(気が向いたら)。

#6 三野新『Prepared for FILM』についていまさら書きました。(加筆済)

SNACパフォーマンスシリーズ2014 vol.1
Arata Mino's Performing Arts Exhibition vol.2
『Prepared for FILM』
@SNAC
2014.4.24~27
 
※一部事実と異なる記載があったために加筆訂正しました。すみません。

 

◎「上演」と、次なる「上演」の間に

 およそ三か月前、清澄白河にあるSNACにて行われたパフォーマンスについて、今更ながら書き起こしたものをまとめてみた。そのパフォーマンスの作品名は『Prepared for FILM』という。『film』(1965年初上映※)というサミュエル・ベケットの映像作品(またはそのシナリオ)を扱ったものであり、その『film』を上映したいと考え、「準備」をする人にあてたもの、として制作されたらしい。この作品は『film』のシナリオが読まれることで進展していくために、朗読劇と言ってもいいスタイルを持っている。そして、『film』が持つある特殊なルールをも継承している。よって、まず『film』の設定を理解する必要があるだろう(以下では映画『film』についての設定を語るが、それはシナリオと共通のものだと思ってもらっていい)。

 『film』に主に登場するのはO(object)とE(eye)である。映像の画面は基本的にEの視界として映し出されるため、Eの姿は一部の場面を除いて画面上には現れない。Eはバスター・キートンが演じるOを追う。対してOは、常に追ってくる存在であるEから逃げようとする。Oが追ってくるEの存在に気付く(存在を知覚する)のは、Oの背後から角度 45度以上にEがはみ出してしまった場合である。OはEの存在に気が付くと、苦しみを味わう。というのも、実はEというのはほかならぬO自身の知覚なのである。自分で自分を知覚することによって、「己が存在すること」から逃げられぬ運命にOは苦しむのだ。以上が『film』の設定である。この映画は、Eが Oを追い詰めたところで終わる。次に、『film』のルールを継承した、『Prepared for FILM』のルールについて述べる。

 『Prepared for FILM』において、Oとされるであろう立場の人物は二人。男女(立川貴一、菊川恵里佳)が設定されている。そしてEであろうものとして登場してくるのは、腕にゴープロ(小型カメラ)を付けた男(京極朋彦)である。Eである男――カメラアイ――は主にOである女の背後に立ち、映像を撮り続ける。カメラアイが撮る映像は、舞台右奥の壁にリアルタイムで映し出される。厄介なのは、この作品では常にカメラアイによって見られる存在である男女が、「二人で」『film』の朗読を行う部分だ。2人の中でOという役割、Eという役割が分化していると思われるシーンも見受けられる――双方がOであるかのように思われたのに。本作品の公演フライヤーにあるように、構成・演出の三野新は「片思いをしている相手に対して見つめてしまう感覚」として視線という問題を扱っている。男女二人は、時に男が女を見つめるという形で、知覚する/されるの関係性を築いているのだ。

 作品の導入部では、挙動不審な男、立川が、これから『film』の上演をはじめる旨を観客に伝える。最終日のアフタートーク(文字起こしされたものはこちら)によると、ここのセリフはアドリブであったらしいが、それと挙動があいまってかなり緊張感の無い雰囲気を与える。そしてこの文の第二段落で述べたような『film』の説明が、女を交えてなされていく。それから、『film』の朗読がはじまるといった流れだ。会場であるSNACの壁には写真(『film』のキャプチャ、あるいは登場する動物や小道具のもの)、そして『film』のシナリオが印刷された紙の断片、両方が散らして貼ってある。基本的に『Prepared for FILM』の朗読で読まれるのは、その貼ってある(一部は床に捨て置かれている)シナリオだ。特徴的と言えるのは、そのシナリオが読まれるのと同時に文字情報としてカメラアイに映されるところである。場合にもよるが、基本的にはカメラで文字が映され、それから声に出して読まれるという一連の流れができているようだ。そして、読まれた内容に沿った動きを男女が演じていく。ここにおいて、『film』は文字として、音声として、また動きによって形を持っていく。

 朗読がシナリオに沿って終わりを迎えるときには、男女、そしてカメラアイであった男は楽屋の方へはけている状態となっている。明かりが落ち、これで公演は終わりかと思われる頃、カメラアイの男が再び舞台上に現れる。舞台右奥にはカメラアイが朗読の間撮り続けていた映像が、早送りで映し出されている。カメラアイの男はその速さに合わせるように、高速で自分が動いた軌跡をたどる。例えば女の背後にへばりつく動作だったり、テキストを映す動作だったり……たった一人で朗読のおさらいを行っていくのだ。上演に含まれる文字、写真、動きなどの数々の情報がただひとつのカメラアイに強引にまとめられたように、圧縮された朗読劇の『film』が高速の動き――ダンスとして再現されていく。

 これは「準備」の作業なのだろうか。最後のダンスシーン以前までは、『film』が「準備」されるのではなく「上演」されていると言える。原案の『film』とはまた別の、三野による演出が加えられた朗読劇――仮にここでは〈film〉と表記しよう――が『Prepared for FILM』の劇中劇のように存在している。そして、その〈film〉がカメラアイに記録(記憶)されている様が一気に表出するのが最後のダンスシーンであったと言えるだろうか。

少し触れておきたいのは、〈film〉の最後、EがOを追いつめる場面になると、朗読を行っていた二人が舞台上からはけて、姿をみせずに(カメラアイの映像には映っている)マイクを通して朗読を行うところだ。観客の背後に設置されている左右のスピーカーから、出る音量が細かく調整される。私はかねてからこの音声がずっと録音だと勘違いをしていたために(というのも、これまでの作品、『あたまのうしろ』(2012)『Z/G』(2013)において録音が多用されていたのが印象的だったのだ)、音声が視覚情報と切り離されて補完されている様を思い浮かべていた。事実、ダンスシーンでは一切も音声が使われていなかったことからも、カメラアイに記録(記憶)されていたのは純粋な「視覚」の情報だったとは予測できる。ただ、これまでの作品と比べて、音声の取り扱い方、もしくはウェイトは変わってきている。今後の作品において、そのあたりがどう変遷していくのかは気になるところだ。

 かくしてカメラアイ――京極朋彦の身体――は〈film〉の視覚情報記録デバイスとなっていた。身体に記録(記憶)された情報から、彼一人がいれば〈film〉を原案とした上映/上演がいつでもどこでも可能な気さえしてくる(具体的な方法はわからないが)。ただ、ここで彼の身体に記録(記憶)されているのは、あくまでも〈film〉の情報である。加えて、一つのカメラアイの「視線」に情報はまとめられている。このカメラアイは、原案である『film』の上映/上演の「準備」としてのデバイスとは成りえないのだ。また、上演を振り返って見ると、〈film〉で『film』の映画のキャプチャが多用されていたことが気がかりである。印刷された『film』のキャプチャ画像が小道具の一つとして登場するのだが、それと同時に〈film〉上演のために新たに撮影された写真も使用される。『film』の一部の要素に、現在行われている〈film〉の新しい情報が加えられていっているのだ。思えば使われていた『film』のシナリオも、読まれた後はビリビリに破られていたりもした(毎公演準備や掃除が大変そうだ)。〈film〉は『film』を侵食し、更新するというような形で上演されている。原案を持つ作品すべてに言えることかもしれないが、次なる上演というものは常に原案のアップデート版となるのである――〈film〉を観るとそのことがよく理解できる。『film』から〈film〉へ。そしてデバイスに記録された〈film〉があることで、さらにその先に新しい『film』が誕生していく可能性さえ見える。『Prepared for FILM』とは、原案作品と、次なる上映/上演の間に一段階階層を設けるという、極めて特異な作業であったのだ。

 ただ、〈film〉記録デバイスである京極が生身の肉体を持つこと、そしてこの物語のはじまりが「片思い」であったことを忘れてはならない。人間的、または人間が抱く感情からこのデバイスを生み出す作業ははじまっているのだ。人間という材料から記録デバイスが生まれること自体かなり驚きであるし、私がこの作品にもっとも興奮した要素ではある。ただ、「視線」を「片思い」と捉え、さらなる純化した「視線」に変質させていく作者、三野の恋愛観とは一体……という気持ちが湧かないでもない。と、同時に、写真家である彼が撮影したものを見てみたいとも思う。この作品は、次なる『film』のための準備であると同時に、「視線」の装置として、写真を撮るための何かしらの機能になってはいないだろうか?

 

※『film』の映画はこちらのサイトで見ることが可能です→http://www.dailymotion.com/video/x8ug5n_film-beckett-pe-culmile-disperarii_webcam

 

#5 core of bells WS@横浜国立大学 レポート〈後編〉

(前回中編に続くと書きましたが前・後編に落ち着きました)

 

横国で二日間にわたって行われたcore of bellsWSのレポートです。公演内容等々に関わる可能性もあるかもわからないので、主にWSを受けた感想です。

 

~一日目までのあらすじ~

黒板に書かれた大量の公演案。それをcore of bellsメンバーの山形さんが一字一句読みあげる……!そしてそれにツッコミを入れたりほくそえんだり「へー」とか言うcore of bellsとWS参加者。

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◎二日目

一日目にこのようなこと↑をした我々は、出た案を踏まえつつ、2週間後にcore of bellsの公演案を発表しました。

WSの流れとしては、

最初にcore of bellsがひとりひとりの案にダメ出し

発表者、再考

もう一度発表(そしてもういちどツッコミをうけたりする)

 

というようなものでした。ちなみに再考時間は20分でした。短かったです。

 

事前に、core of bellsのこれまでの公演の詳細を記した資料なども見せていただいたこともあり、私を含む学生数名はかなり緻密な案をつくっておりました(ある学生は分単位で行動を記していました!)。

はたまた別の学生はとにかくとにかくいろんな案を取り入れている傾向があったり。

逆にシンプルなのがなんだか笑えるという案があったり。

皆同じ原案を踏み台にして作っているはずなのですが、いろいろ広がりがあります。

 

ただ、広がりまくってしまっていたというか。

 

私自身も考えている間、「これもできる」「あれも面白い」という案がぽろぽろと出てくるは出てくるのですが、それを「まとめる」ことに力を注ぐことになってしまいました。まとまったからと言ってこれがなんなの?みたいな初歩的すぎる見落としのようなものに、本当に簡単にはまった感じがあります(何故かはまってしまう!)。そして冷静なツッコミを受けたり。

 

そして再考した結果発表した案でも、core of bellsの演奏シーンが一切無かったという致命的落とし穴に私ははまりました(これは単に馬鹿なのかもしれない……!)。

いやはや、怖いぜ情報過多。

 

20分だけで再考、という時間に縛られまくる思考というのもかなり疲れました。新鮮。

どことなくげっそりしている参加者もいたり。

 

全員の発表が終わっているころには5、6時間は経っていたでしょうか。何にせよ制作についてアドバイスを受けWSは無事終了しました。

 

 

 

 

WSを通して思ったことは、ああ、core of bellsってバンドだったんだなあ、ということです(あたりまえ)。

 

もちろん作り手の数ほど作品の作り方っていうのはあるのでしょうが、

・時間的制約

・それに対する情報の多さ

・そこから情報を絞っていくやり方(みんなでツッコミ)

このあたりからcore of bells独自の制作方法みたいなものが見えたような気がして、

かつそれは、バンドという少数の仲間内だからこそ上手く機能しているのか……?とか考えたのでした。

何か一つのこと(制作)にものすごく情熱をささげるために集まる、というよりかはバンドという一つの形態がすでにあって、じゃあここから何を始めるか、というものすごい冷静さの下から作品が生まれている印象です(あくまで一学生からの印象です)。

 

はじめてお見かけしたのが吾妻橋ダンスクロッシングだったこともあり、面白いパフォーマンスする方々と思っていた節があったのですが、バンドでした!というまとめです。

 

 

 

ちなみに帰り際にオカルトに関する話をいくつか聞かせていただきました。

core of bells、オカルトの先輩や……!

みなさま、WS開いてくださり、本当にありがとうございました。

 

 

#4 core of bells WS@横浜国立大学 レポート〈前編〉

先日、7/1と7/15の二回にわけて、core of bells(公式HPはこちら)のWSが横浜国立大のとある講義で行われました。

 

core of bells――おこし頂いたこの方々は、都内のライブハウスや、パフォーマンスイベント、はたまた美術館などでも姿を見ることができるバンドマンのお兄さん達であります。音楽ジャンルは「ハードコア」らしいです。最近であると、「月例企画『怪物さんと退屈くんの12ヵ月』」という、毎月公演をうつという一時期の倖田來未のような活動をされていて、私も何度か足を運ばせてもらっています。

 

そんなcore of bellsが国立大学に来るという字面がまずなかなかインパクトがあるのですが、それ以上に考えさせられた部分も多いので、受講した学生の立場から、少しレポートをさせていただきます(差し障りのないレベルで)。

 

◎一日目

まず、座学です。

core of bellsがどういう経緯で今の活動に至っているのかというのが、音楽の歴史にさらっと触れつつ活動歴にも触れつつ、紹介されていきます。

 

以下は紹介された音楽などなど(これが直接的に影響しているというわけではなく、あくまでも話の中にでてきた、というものなので、あしからず。そして超一部です)。

まず、ハードコアってなんぞや?という話の流れで確か出てきた、Napalm Death「You Suffer」。

たった一秒の曲です。

これが「爆発」ってやつなのね、と一応の理解を私はしました。


Napalm Death - You Suffer - YouTube

ハードコアとは爆発の連続、という認識で正しいのだろうか。

あとはAnal Cuntの5643 song EPというのも紹介していただきました。


Anal Cunt - 5,643 song ep (1989) - YouTube

シングルレコードに5643曲入れたらしいです。すごい……のか?

 

そしてそしてジャパノイズの系譜ハナタラシ「アンチノック」。


hanatarash - Live!! 88 FEB 21 Antiknock - YouTube

 

「え、これって観客の声なんですか」と思わず質問が出る始末。

すごいこと考えるひともいたもんだ。。

などなどいろいろ紹介されながら、たくさん知らない話を聞きました。詳細を書きまくるといろいろあれなので、割愛。とにかく、core of bellsを観た時に感じる「記憶(記録)できないまでの情報量の多さ」みたいなものが垣間見えたり、それも受容側にかなり重心が置かれているからこそなのか、といった感想。

 

以下はノートになにげなくメモした講義内容です。

モッシュにはリーダーが存在したりする。

・(core of bellsの公演である)『moshing maniac 2000』の時最後の方でやってたモッシュは「wall of death」という。

・パンクの人はMCですごい良いことを言ったりする。

・CDジャケットに死体を使うみたいなジャンルがある。

 

音楽の勉強のあとは肝心のWSお題「core of bellsの公演まるまるひとつ考える」にとりかかります。

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黒板を駆使し、各々考えた案をとりあえず書きつけていきました。見た目が良かったので皆カメラでパシャパシャとっておりました。

 

この案をまとめつつ削りつつ、各自宿題をお持ち帰りし、2回目のWSで発表となります。(後編に続く)