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そよそよ族ノート

備忘録的に観劇記録を書きます

#7 中野成樹+フランケンズ『えんげきは今日もドラマをライブする vol.1』 Aプログラム 森のカヴァー の内容と感想

(観劇日:2016年6月25日(土)19:00の回)

※ネタバレしかないです!

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※『えんげきは今日もドラマをライブする』(以下『えんげきドライブ』)にはAプログラム「森のカヴァー」と、Bプログラム「戯曲のノンストップ・ミックス」の二種の公演がある。

 

 Aプログラムは、「ナカフラ流カヴァー・アルバム」であるらしく、3つの戯曲が上演される。

 

1、『夏の夜の夢』(W.シェイクスピア、1595年ごろ初演)

 当日パンフレットにもあるように、市民団体と労働者のレイヤーが、原作に重ねられている。

 役者たちは全員いまから眠るよという雰囲気の部屋着を着ている。そして手にはクッションを抱えている。部屋着の役者たちは、それぞれの役柄を演じる。ただし、パック役の人物はひとまずは登場してこず、見えないパックに向かって役者たちが声をかけるというようになっている。夏の夜の恋騒動が起こっている中、ふと舞台上に、「アースコンタクト」というジャンパーを着た女が現れる。他の役者たちはその存在を気にせず、芝居を続けている。そんな調子の中、女はたびたび舞台を横切っていく。片手には氷結。気だるそうに歩く。時には「アースコンタクト」のでかい看板を持ってティッシュを配っている。他の役者たちは、夏の夜の夢をすすめながらも、ときおり、女の配るティッシュを避ける。

 市民団体が登場する。団体名は失念したが、SEALDsに似た響きであったことは記憶している。代表の若い男は、『夏の夜の夢』で劇中劇を上演する「ボトム」という人物であり、市民に、演劇を上演することを宣言する。ボトムの横では、団体員のような女が、市民を険しい顔で眺めながら(睨みながら)、「あなたたちが主役です」というような内容のパネルを掲げている(正確な文面は失念してしまっただが、大意はそのようなところだったと思う)。

 『夏の夜の夢』の妖精パックが媚薬を扱う場面では、「アースコンタクト」の女がパックとして登場する。抑揚のない声で、氷結を持ったテンションをそのままに、媚薬をふりかける。媚薬をかけられた人物たちにより、恋の関係図は複雑になり、事態の収束をはかった妖精王により、全員が眠らされる。すべてが夢であったかのように。

 一方市民団体は演劇の上演準備をすすめ、街なか(というか、コンビニの中、もっと言うと、ファミマ)で練習をしている。藤谷と呼ばれる劇団員(藤谷理子が演じる)や、福田と呼ばれる劇団員(福田毅が演じる)、そしてボトムは悲恋の物語を演じる。その練習中に、刃物を持ち、血まみれになった「アースコンタクト」の女がふいに現れる。その瞬間、眠らされた役者たちは通り魔にやられた負傷者(もしくは刺殺体)となり、ボトムら市民団体による演劇は中断せざるをえなくなる。

 

 最後の場面で、演劇は現実におこるショッキングな出来事に負けたのだろうか。しかし、そのショッキングな通り魔事件も、『えんげきドライブ』の演劇上のできごとである。演劇はもとより、客席で携帯電話が鳴るくらいで壊れ得るほど弱いのであるが、反面、携帯電話がなったことであったって、フィクションの中に取り込むことができるという強さを持っている。そして、「再演」することも可能である。通り魔事件のわからなさを今一度感じることができる。

 

2、『華々しき一族』(森本薫、1950年初演)

 原作戯曲は青空文庫で全文読むことができる(こちら)。映画監督の師である鉄風の元に、須貝という男は居候している。鉄風には三人の子がおり、そのうちの一人、長女である美伃(みよ)は再婚相手の連れ子である。須貝、美伃、そして義妹である未納(みな)、その実兄である昌允(まさたね)、そして鉄風の再婚相手、諏訪……それぞれの想いが錯綜し、奇妙な人間関係が出来上がる。 想い人のすれ違いや、相手を思いやるがための行為、そして想いから逃れるための行為により、登場人物たちの恋愛関係は、収まりどころをなくす。須貝は、年齢の近い美伃、未納のどちらでもなく、その母である諏訪に想いを寄せ、それを打ち明けてしまう。そして、自ら家を去っていくこととなる。

 一本目の『夏の夜の夢』ではビジュアルと、一部のセリフが現代のものになっていた。それに対し、『華々しき一族』はほとんど戯曲に忠実である(ビジュアルに関しては、昔とは思えないが、現代でもないような服装をみなしていたように感じた)。ただ、青空文庫に掲載されている、美伃がすすりなき、「妾、あの人に、いけなかったわ。……ほんとうに、いけなかったわ。」というシーンでは、美伃は泣かず、静かに階段を登っていくというように変わっている。そして、このセリフを最後に、この演目は終了した(それ以降のセリフは全てカットされていた?)。

 

 ラストシーンの、斎藤淳子演じる美伃は、明確に悲しさを出していたわけではなかった。加えて演目がそこで終了することにより、美伃の本心は、本当はどこにあるのか? 他の登場人物はどうか? などと、実際に描かれた物語や、吐かれたセリフ以上のものを勘ぐってしまう。喜劇のようでいて、何か恐ろしい雰囲気を感じた。

 小林美江演じる諏訪は、きちっとした格好になぜかカジュアルめなサンダルを合わせていて、これは意図したものかは不明だが、なんとなく隙がある女性にみえた。しゃべりや動作はことごとく丁寧である。私はあまり役のうまい下手がわからなかったりするのだが、それでも本当に役者はすごいと思わざるをえない。

 

3、『マキシマム・オーバードライブ改』(誤意訳:中野成樹、2012年初演)

原作:『亭主学校』(モリエール、1661年初演)

 誤意訳とは意訳、と誤訳、のかけあわせであり、この作品では『亭主学校』の話が現代のような空間に移っている。花嫁修業のために監禁を強いる男、スガナレルから逃れるため、妻イザベルが騙し打ちで脱走を試みる、という物語である(ざっくり)。

 

 面白おかしい滑稽な芝居、という雰囲気であるが、このように古い戯曲を現代(っぽいところ)で再現すると、言動に不条理さを強く感じる。そうなるべくしてそうなってしまう流れ(お約束!)は、ふと気づくと少し怖い。しかしながら、あるべき夫婦の姿にほっこりし、恋愛いいじゃないと安心したり。

 ナカフラはかねてよりこのような誤意訳で、現代的に噛み砕いた「ような」古典をやり、誰にでも愛されそうな雰囲気を放っている。しかし、実際のところ「わかりやすく」「嚙み砕く」なんてことはしていないのであり、古典戯曲を解析しバラバラにして再構成しているわけなので、かなりハードな作業の上に成り立っているのではと思う。古典の雰囲気を持ちつつも現代の劇場にはまる、不思議な二面性はこの劇団以外では今の所みたことがない。

 

 

 終演後に振り返ると、古くは1595年頃、新しくは2012年の戯曲が存在していたことに改めて驚く。そしてこれらが上演されたのは2016年現在であり、どこへでも自由に行き来できる演劇の豊かさを一身に感じる作品群であった。

 

 

 余談であるが、今回の公演では「ドラマ席」と「ライブ席」という二種の席があり、私は「ライブ席」を選択。ものすごく面白かった。ライブ席は舞台の下手側、横に席が設置してあり、舞台との距離も近く、そして高さもほぼ同程度。基本的にドラマ席を正面として作品はつくられている(だろう)ので、ライブ席にいると、観客であるというより出演側に立場が近くなっている錯覚に陥る。物語にひきこまれるまでもなく、役者と同一線上に勝手にいたという感じ。最初は慣れず、「うおーー」といちいち面白がっていたが、三本目になるとすでに慣れていて、通常の観劇のようにみることができていた。慣れは怖い。

 

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中野成樹+フランケンズ2016 『えんげきは今日もドラマをライブする vol.1』

2016年6月18日〜26日 東京芸術劇場シアターイースト 

誤意訳・構成・演出:中野成樹

ドラマトゥルク:長島確

出演:村上聡一、福田毅、竹田英司、田中佑弥、鈴鹿通儀、洪雄大、石橋志保、小泉まき、斎藤淳子、北川麗

ゲスト:小林美江、山田宏平、原田つむぎ(東京デスロック)/ 佐々木愛、藤谷理子