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#10 『月・こうこう、風・そうそう』の内容と感想

観劇日:2016年7月21日(木)13:00の回

 

※ネタバレしています。  

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 劇作家別役実の新作は、「かぐや姫伝説」を下敷きとした物語であった。別役実には珍しく(はじめての?)、時代劇である。舞台上には竹が生え、また、天井からも竹はぶらさがっている。薄明かりに照らされて、竹やぶがある、といった形だ。私はZ席から見下ろす形でみていたのだが(当日はZ席しかあらず、、)、真正面からみると、もっと広がりを感じる大きさにみえたかもしれない。竹はもちろん、別役の作品の中でいう「電信柱」的役割を担っている(ジ・アトレ インタビューより)。

 

 

 竹やぶに、風の音がひびく。老夫婦が登場する。のちに竹取の翁と嫗であると判明する彼らは、ボロ布のような衣服を纏っている。彼らは、死に場所を探して竹やぶをうろついている。しかし悲壮感は無い。ゴザをひき、持ってきた粟粥を二人ですすり、他愛も無い会話をぽつぽつと続ける。そこへ、美しい娘が駆け込んでくる。「助けてくれ」という娘は、何者かに追われているらしい。しかし、追われている理由はわからないのだという。老夫婦は娘をゴザの上に乗せてやる。やがて、盲目の女(いわゆる、瞽女)がその場にやってくる。娘を探しているようだ。落ち着き払った声で、その娘をかくまうと不幸になる、と告げて、瞽女は去っていく。

 このようなはじまりで別役版「かぐや姫」はスタートする。別役版の姫ーー翁たちにかくまわれた美しい女ーーは、竹の中にいるのではない。「兄と結ばれ、兄とまぐわう」という忌むべき予言を背負った状態で、翁たちの前に現れる。

 また姫は、「風魔の三郎」という、竹やぶにたびたび現れる殺人鬼(この表現でいいのか?)への生け贄でもある。風魔の三郎は嫁探しをしている中で、女を得ては斬り捨てるという行為を繰り返し行っている人物だ。つまり、「生け贄」という書き方をしたが、その実、姫は風魔の三郎にあてがわれた嫁でもある。

 風魔の三郎と姫はしだいに共にすごすようになる。しかし、姫にはあの予言がつきまとう。姫は、竹取の翁という人買いに売られた娘であるがために、実の兄が誰であるかがわからないのである。翁によれば、姫はもともと、いつのまにか家の前に捨て置かれていた赤子であったのだという。予言をした瞽女は追い打ちをかけるように、「お前が結ばれた者がお前の兄となる」と姫に語りかけ、予言からは逃げられないことを強調する。

 一方風魔の三郎は、自身の「ねむりあそび」(夢遊病的なもの)に関して悩みを抱えていた。ねむっている間に、体が勝手に人を殺してしまうのだという。このままでは姫を殺してしまうという思いと、姫とまぐわった自身が「彼女の実兄」であることを避けるために、三郎は自身の名を捨て、新たな名前を得ようとする。登場人物のセリフのみから存在を匂わせる最強の兵、ウンテンのジュウザ(名前うろ覚えかもしれない。ウンテンは雲天? 意味や由来を理解できなかった。以降「ウンテン」と表記します。)を倒し、新たなウンテンとして生きようというのだ。

 ウンテンの強さは桁違いであり、その強さの理由は、「弱い者にも強い」部分にあるという。かつて一介の兵士がウンテンに勝つために、赤子を用意させ、それを矢で射り、弱い者に勝つという力を手にいれた。そしてウンテンを倒し、現在のウンテンに成り代わって最強の座についているのだという。

 風魔の三郎と結ばれた姫は、身ごもった子供を自身の体ごと三郎に差し出し、矢で射させようとする。三郎が雲天に勝つには、弱い者に強くあらねばならないからだ。姫の腹に弓を向けた三郎は、決死の思いで矢を逸らす。三郎には赤子を射ることはできない。

 姫は我が子を死の淵においやった罪を償うとして、自身の目を破る。その後予感されるのは、身ごもった子を彼女が育て、やがてその子を翁の家に置いていき、そして瞽女として、成長した子へ予言を与えるという未来であるーーつまり、「兄と結ばれる」と予言を残した瞽女は、姫の未来の(または過去ともいえよう)姿であったのだ。また、三郎のその後に関しては、ウンテンに挑むが死亡した、と後日談が語られる。

 

 

 以上が大雑把なあらすじになる(これで大雑把!)。この逃げ出せない絶望のループの舞台となる竹やぶ一帯は、ミカドたる人物に治められているようであるが、ミカドはそこで起こったできごとを耳にしては、「そうか」とつぶやくだけである。このループに救いは無い。

 もし三郎が赤子を射ったのならば、忌まわしい予言のループを抜け出せたのだろうか? いや、それでも結果が変わることはないだろう。ウンテンという空白の存在がそもそも終わらない構造を持っているがために(次のウンテンがずっとひかえている)、三郎がウンテンに成り替わったところでまた次の三郎が現れるだろう。これは余計な妄想なのかもしれないが、その結果の先の未来に、また別の姫が誕生する……というように予言が続いていくことは想像に容易い。それがために、三郎が必死になって矢を逸らしたという出来事がひどく虚しく悲しく思える。結果は変わらないのだから。

 矢を射る/射らない、というような分岐ルートの予感は他の箇所からも感じることができる。たとえば、姫の兄と名乗る男の存在からである。姫の母は、ウンテン征伐のための矢をその男に託していた。結果的に三郎がその矢を手にすることとなったが、男がウンテンに挑む未来もありえたのかもしれない。だが、誰がウンテンを殺したところで結果は変わらない。このループには分岐はありえるが脱出口はない。

 脱出が不可能な理由は、登場人物たちのキャラクター性も関係している。この別役オイディプス闇ループに登場する人物たちは、とにかく流されて生きている。姫と三郎の婚儀のシーンなんかは、若い二人のたどたどしいやりとりにキュンとする(?)ポイントでもあるのだが、別役の描くキャラクター性が良く出ている場面とも言える。

 二人は互いに言う。「ドキドキしている。隣の女が、嫁になろうとしているのか、殺されようとしているのか」「ドキドキしている。隣の人が、私を嫁にしようとしているのか、殺そうとしているのか」(セリフはうろ覚え)。前者が三郎で後者が姫のセリフである。聞くに、新手の吊り橋効果かとも思うが、お互い、自分がどうしようとする、ということでなく、相手の出方を気にしているのが少しひっかかる。またここの場面で、彼らは、目の前にある物ーー婚儀のための料理(酒や黒豆)ーーをベースに会話を進めていく。「酒があるね」「黒豆があるね」「飲んでごらん」「食べてごらん」……などなど、彼らは物をきっかけに口を開く。まわりの環境に突き動かされて言葉や行動が生まれる。短刀があったらそれを使うし、粟粥があればそれを食べるのである。周囲の世界が、彼らを「そうする」ように縛り付けているようにもみえる。このような状況は、別役作品ではままあることなのだが、今作では特に、その設定が「そうなるしかない」という絶望度を高める。

 登場人物たちは、「そうする」ように流される。三郎はねむりあそびによって人を殺したと発言しているが、その実、ねむりあそび中にも彼の目は見開かれている。原因不明の衝動は彼の意思となり、人を殺害するに至る。姫は罪とわかっていながら、我が子を弓の前に差し出す。死に場所を探していた翁たちは、もはや生きているという自覚もなくしながら、ループに巻き込まれるがままになっている。彼らは勝手に、結末のわかった悲劇へと向かっていく。

 

 

 『月・こうこう、風・そうそう』を観て改めて驚愕するのは、別役実のブレなさである(上演された作品をみたことは数えるほどしかないので、戯曲を読んだだけの判断であるが)。雰囲気としては、『赤い鳥の居る風景』や『マッチ売りの少女』などの、初期作品にかなり近いのではないのだろうか。戦後日本への鋭い考察(または批判)と評されることの多い初期作品群は、重々しい「罪」の意識と、それに耐え続ける人物とを舞台上に表す。ただ、初期作品のキャラクターたちが耐えることにより意思表示をするのに対し、今回のかぐや姫は、終わることのない耐える日々にただ身を落とすだけである。本当に救いようがない。

 途中途中笑える箇所があったのが観客的には救いだったかもしれない。姫・三郎役もフレッシュで恋愛を応援したくなる感じがある。「ぼんやりと」というト書きがみえてくるようなラストの翁・嫗の演出はやりすぎ感もあるが、あのぼうぜんとするようなレベルで私自身もいろんなことに無関心であるので、やばいかもしれないとふと自覚的になった。「気付いたらそうなってた」ではいろいろと遅い。

 

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『月・こうこう、風・そうそう』「かぐや姫伝説」より

2016年7月13日〜7月31日 新国立劇場 小劇場 THE PIT

作 別役実

演出 宮田慶子

出演 和音美桜 山崎 一 花王おさむ 松金よね子 増子倭文江 橋本 淳 今國雅彦 稲葉俊一 後藤雄太 草彅智文 竹下景子 瑳川哲朗