そよそよ族ノート

備忘録的に観劇記録を書きます

#12  遊園地再生事業団+こまばアゴラ劇場『子どもたちは未来のように笑う』の内容と感想

観劇日:2016年9月6日

 

※ネタバレを多く含みます

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 本作は、3月のワークインプログレス、6月のリーディング公演を経て上演された作品である。宮沢章夫率いる遊園地再生事業団と、こまばアゴラ劇場のコラボレーションにより企画されたものである。

 

 舞台は鳥のカゴのようなもので囲われている。左右に出入り口がある。映像を映すためのモニターがいくつか上方にある。カゴの中央にはテーブルと、椅子。テーブルと椅子は場面場面で動かされながら、ほとんどのシーンで使用される。

 

 ふにゃふにゃと漂うようにやってきた俳優と、女優がカゴの中央でセックスをするシーンから物語ははじまる。この時にできた子ども、世界中で唯一このカップルだけがセックスをしていたたったの15分の間にできた奇跡の子どもが、また子どもを生んでいく、ということが、主軸として描かれる。

 奇跡の子供ーー名前は涼子というーーの産んだ子は、先天的に障がいを持っている。その事実に対し、周囲の人間は戸惑いや拒否感など、様々な感覚を抱いている。「周囲の人間」とは、なにも涼子の知り合いに限らない。この舞台では、「子どもを産む」ということに対する様々な考えが、群像劇的に描かれる。

 その中で、佐季という人物の考えや境遇が、ひとつのキーポイントとなる。佐季は、三人の女優によって表現される一人の女性である(クレジットではそれぞれ、昼下がりの佐季、日が落ちてからの佐季、明け方の佐季、というような分けられ方をしている)。佐季は体質的に、子どもを産むことができない。彼女はその原因を夫にも求め、そのせいもあり夫婦関係はギクシャクとしている。

 夫に何の問題もないことが発覚した後、彼女は勤めているカフェで、妊娠中の涼子に遭遇する。涼子が障がい児を妊娠していることを知った佐季は、激しい口調で涼子に「堕ろせ」と言うーー三人の女優で描かれる佐季の内には、「堕ろせ」と思っていない、絡み合った感情が存在するのだが。その意見に対し、涼子は強い意志を持ち、「産む!」と何度も答える。

 

 物語の結末、というか、ラストは上記したような運びである。それに至るまでの群像劇パートでは、そのような衝突ばかりではなく、もっと多くの、出産に関する考えやできごとが描かれる。障がい児の存在を認めない、または絶対に産んだ方がいいという意見、ただとまどうという姿勢。また、女性が妊娠に気づく瞬間や、妊娠した妻を持つ夫たちの様、不妊症の男の行動なども。

 そしてこの舞台の、おそらく最大の特徴である部分は、それらの意見やできごとにまざり、たくさんの小説や戯曲のことばが引用される箇所だ(うち一つは雑誌記事であったと記憶している。一つどころではなかったかもしれないが)。それは妊娠や出産、子育てに関する記述であり、生物学的な説明、出産体験のすごさ、または子育てにつきまとう絶望などの内容がある。役者たち9名は、涼子たちのいる軸の物語からふにゃふにゃと役を変化させ、朗読者として引用をはじめる。本を持ちながらその内容にある役柄(著者であったり登場人物であったり)に沿った演技をするのだ。引用の出典は、舞台に設置されているモニターに映される。日本の作品が多かったが、国外のものも含め、年代は特に定められず収集されたものではないかと感じる。

 群像劇パートと引用パートは入り乱れて展開される。時に役者たちは手拍子でリズムを刻み、演舞のように皆で動作をするなどして、場面を転換していく。引用部分、群像劇、引用部分、引用部分、群像劇……または、それら世界線が曖昧なままに進行するパートもあった。

 

 

 内容の説明はこのくらいにして感想に入ってしまうが、とにかくこの公演では、出演している女性陣たちの力強さにかなり感動した。特に佐季のうちのひとりと、涼子の姉、真美を演じた長野海は透明感ではない美しさを持っていて魅力的に思えた(もちろん、対して俳優が悪かったということは無いのだが、そのあたりは演出方法への疑問に絡めてもう少しあとに書く)。

 また、本当に難しい問題に立ち向かい、そして投げっぱなしでは無く謙虚にも意見を提示するという姿勢は、とても誠実に思えた。その誠実さはこのような作品にはなくてはならない部分であると感じた。結果この作品は、自分自身が妊娠、出産という尋常ではないことをする時、どうなるのだろうどうするのだろうということを考える契機を与えてくれた(私にとって)。

 

 しかし、ひっかかる点がいくつか残るのも事実である。その中には、とても個人的な問題によるものもある。個人的なことはとりあえず除外して書くとして、最もひっかかる点と言えるのは、異常に「演劇的」であることである(ここでは、「演劇的」という言葉を、発話方法や人物像がリアルに準じていない、もしくは、役柄をコロコロと変化させるような、想像力により許された自由度がある、という意味で使用している)。

 引用部分がオーバーアクションになるのは、セリフに「」をつけているためかもしれないが、群像劇パートにおいても、特に俳優たちに与えられている演出はどこか「演劇感」が強い。まずキャラクターが濃い。また、まるで笑いをとるためだけのようにモブ的に配置された俳優もいる(真実、その狙いはわからないし、私も笑ってしまっていたのだが)。加えて、群舞のような演出と、コロコロと変わる配役。これら演劇特有の場面転換にはどこか懐かしささえ感じた。

 演劇感が高まると同時に「これがフィクションである」という感覚も高まる(もちろん元々フィクションなんだけども)。ラストの涼子と佐季の衝突は、フィクションの力を借りたことでおこったものだということを強く意識する。確かに、意見の対立と喧嘩というものは現実でも起こるかもしれない。しかし、見ず知らずの他人といきなり本音をぶつけあう機会はそうそう無いとは思うし、(対面の)喧嘩とは一時的なものだ。佐季が三人いたように、いろいろな意見を内にしまいながらも、なんとなく折り合いをつけ、ごまかしながら生き続けなければならないというのが実際である。現実でおこる意見の対立のいきつく先は喧嘩ではない。

 フィクションが佐季の意見を尖がらせ、フィクションが涼子という存在に喧嘩をふっかけるようにしむける。その結果、涼子は産むという決意を強めたかもしれないが、その衝突によって佐季はどうなっただろうか。

 もちろん、誰も傷つかないように言葉を発することは難しいし、何かを発言をする上でそのことに臆してはならないという思いもある。しかし、フィクションという神がかり的力を使って、しなくてもいい衝突を生むというのには、何か耐え難いものがあった。裏を返せば、フィクションの力でしかできないことをやり遂げた、という賞賛にもなるのだが。

 ひっかかりはもうひとつ。引用の仕方についてだ。もちろん、宮沢章夫が文化に関する知識と、それに対する精確なまなざしを持っているとは認識しているつもりだ。引用に関しても、非常に慎重に考えられているのだろうと予想できる。しかし、断片化され、演出という解釈の加わった記述がポンポンと投げられると、どうしても戸惑ってしまう感覚がある。極め付けは佐野洋子のエッセイと、唐十郎の戯曲の引用の仕方であった。出産に関する佐野洋子のエッセイは、恐ろしいほどの多幸感をほとばしらせた役者によって読まれていた。それはひとつの正しい読み方なのだろうが、正直引いてしまった。唐十郎の戯曲(作品名を失念してしまった。。)の引用に関しては、極端なデフォルメがなされている気がした。これも面白意見のうちのひとつ、という紹介の仕方にみえてしまう部分があった。まったくもってそういう意図はないだろうが、そう、みえてしまったのだ。これについては私がうがった見方をしすぎているのかもしれないが……。

 とにかく、引用の方法に関しては、もう少し別のやり方はなかっただろうかと思ってしまう(思いつかないけど)。あとは、引用した作品の選出基準がわからなかったということもあるが、そのあたりは自分の学の無さを恨むことに留めておく。ほとんど読んだことないor内容忘れていたものだった……。

 

 なにか本当に大切なことが舞台上で表現されていた気がしたのに、その手前でひっかかってしまっているという感覚がある。それはとても惜しい体験である。ただ、「この作品を通して対話をしたい」という宮沢の思惑にはしっかりとはまってしまっているので、これはこれでいい観劇体験であったかもしれない。しかしながら、ごちゃごちゃ考えてみてはいるが、『子どもたちは未来のように笑う』というタイトルは反則的に強い。

 

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遊園地再生事業団こまばアゴラ劇場『子どもたちは未来のように笑う』

2016年9月3日〜25日 こまばアゴラ劇場

作・演出 宮沢章夫

出演 上村 聡 松田弘子 長野 海 鄭 亜美 黒木絵美花 藤松祥子 大村わたる 小寺悠介 大場みな