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観劇感想などです

#14 2016年書き残し感想②『ソコナイ図』『あなたが彼女にしてあげられることは何もない』『桜の園』『カラカラ天気と五人の紳士』

 

 

前回の記事の続きです。

 

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dracom『ソコナイ図』(観劇日:11月26日)

森下スタジオ 11月25日-28日

作・演出 筒井潤

出演 鎌田菜都実 村山裕希 大石英史 小坂浩之 長洲仁美 大江雅子

 

 大阪を拠点とするdracomが、東京で二本立てを上演。本作はそのうちの一本である。年末なのか年始なのかわからない時間帯、他に誰もいない家で二人の姉妹が倒れている。「ずっと餓死している」とでもいうような、持続された死の時間が長尺で描かれる。姉妹はほとんどの場面で倒れた体制をキープし、思い出したように過去の話を語る時は、ゆっくりと立ち上がる。そして、やがてゆっくりとまた横になる。そうして死ぬ動作は何度も行われる。この作品も全編ほぼモノローグと言えるような語り口である。「もう年明けた?」という風に妹は姉に語りかけるが、それは語りかけるといより答えを求めぬひとりごとだ。その口調は死んだ姉妹だけでなく、姉妹の周囲に生きる人間たちにも電波している。

 セリフの反復で構成されているといっても差し支えないつくりだが、時間が巻き戻って繰り返しているという感覚はほとんどなかった。発話法がかなり特殊であるためだと感じる。役者は一定のテンポをキープしながら抑揚をおさえセリフを発する。まるでベルトコンベアに乗ったセリフを業務的に取り扱っているようである(これ伝わるだろうか)。時間が止まっているようでいて、進んではいると感じさせるのだ。過去に戻るわけではないのである。また、セリフには細かなエラー(言い淀み)や、単語のすり替えがおきていて(おそらく気づかなかった箇所も多いだろう)、これももしかしたら「反復である」という感覚を消す要因となっていたのかもしれない。

 妹の手のひらに握られた5円の描写もみごとで、みているこっちが重苦しい淵にひきずりこまれるような暗さは私にとってはもはや快感である。死の感覚を言い当てることは不可能だが、もしかしたらこんな感覚なのかと思うほどに生々しく感じられた。都市で餓死してしまうという社会的な題材ではあるが、提示された死の感覚に驚いた作品であった。

 

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チェルフィッチュ『あなたが彼女にしてあげられることは何もない』(観劇日:12月4日)

南池袋公園内Racines FARM to PARK 12月2日-4日

作・演出 岡田利規 出演 稲継美保

 

 南池袋公園にあるガラス張りのカフェが会場である。出演者である女優は開演後に、カフェの中にあるテーブルに座り、そこから一歩も動かず演技をする。観客たちは、それをガラスごしに外から眺めるという形になっている。女優のテーブルには集音マイクが設置してあり、彼女がしゃべることのみならず、カフェの雑音を拾う。観客は、ヘッドホンをすることでそのマイクの音を聞き取る。テーブルの真上には、ちょうど面と平行になるようにカメラが設置され、テーブルの上の様子がモニターを通じて観客に伝えられる。出演者はひとりごとを、固い口調で話す。その内容は、世界の創生に関わる神話のようなものである。彼女は、テーブルの上にあるコーヒーや砂糖、ミルクを使ってそれを表現する。遠く思える神話の世界が、私たちにとって身近なカフェの世界に重なる。

 カフェで、少しイタいと思わせる格好(意図的でなかったらただの誹謗中傷ですみません)をした女優が、ぶつぶつと神話を語るというのは、もしこれが「演劇でなかったら」、無視されるできごと、あるいは少し気味悪がられる状況であろう。彼女の言葉は、演劇というフィクションの枠にあるからこそ無視されないで私たちの耳に届く。今世界に生きるモノすべてが嘘を信じている、という彼女の声が聞こえてくるので、私たち観客も疑念を持たずに生きている部分はあるかもしれないしかし神話なんて持ち出されても……と私は考えることができるのである。フィクションを通して語られ、届けられる声があることを再認識した。裏を返せば日常では、変なことを言う人の話なんて聞いてはいられない。

 面白かったのは、一般のカフェの客や店員が女優にまったく触れないことにより、フィクションの枠が強くみえたことだった(上演を邪魔しないように、机をくぐって移動する女性などがいた)。タイトルにある断絶は、カフェのガラスとして目の前にありつつ、女優が話す物語自体と、演劇であることに対しての疑念として心に残る。

 

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地点『桜の園(観劇日:12月24日)

吉祥寺シアター 12月20日-24日

作 アントン・チェーホフ(訳 神西清

演出 三浦基 出演 安部聡子 石田大 小河原康二 窪田史恵 河野早紀 小林洋平

 

 話の内容やセリフはそのままに、三浦が再構成した『桜の園』は、同じ12月中に上演された『かもめ』と同じく、地点のレパートリー作品のひとつである。大量のコイン(近くでみなかったが、1円玉?)で囲まれた四角い土地の中央に、窓枠で縁取られ肖像画のように一家が居座る。いずれ桜の園を買うロパーヒンが見張るように土地の周りをせわしなく動き、同じく土地の外側にいる大学生のトロフィーモフは思想を語る。

 みた当初、わからなかったとかなり嘆いた。もちろん地点独自の音楽的な発話に面白さや気持ちの良さを感じたし、ロパーヒンが踊り狂う様に『桜の園』が喜劇である一面をみたという気分にもなった。しかしそれはあくまで表面的な快感であると感じる。ほとんど直感なのだが、この作品をしっかりとみた時にはもっと得体のしれない感覚を覚えるのだと思う。この『桜の園』という近代戯曲のことばが、いま・ここで生み出されているという感覚をまずしっかりとつかまなければと思う。地点の『桜の園』を味わうにはまずそこからだと感じる。普通は容易く感じ取れるのかもしれないが、鈍い観客である私としてはみかた(態度? 集中力?わからないが……)をつくり変えねば味わえないという確信があった。そして、身体に変化を要請する作品は、やはりすごいものなのだとも予感する。

 (感想を書くに至らないけれども、ラストのセリフ群の切なさはやはり染み入る。)

 

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中野成樹+フランケンズの短々とした仕事5『カラカラ天気と五人の紳士』(観劇日:12月29日)

STスポット 12月27日-30日

作 別役実

演出 中野成樹

出演 浅井浩介 篠崎高志 竹田英司 鈴鹿通儀 山田宏平 斎藤淳子 新藤みなみ  

 

 『ゴドーを待ちながら』の別役版ということができる「五人の紳士シリーズ」の、本作は(たしか)3作目にあたる。風の吹くだだっぴろい土地で、五人の紳士がとりとめなく話をつないでいく。懸賞であたった棺桶と青酸カリという物を前にして、どのように行動していくかを彼らは語りあう。

 私は別役戯曲を面白いと思う反面、読むのがしんどいと思うことがある。その理由の半分くらいが、登場人物がほとんどの場合「男1」「男2」という表記なので、人物の把握がしづらいということにある。なので、上演してくれるというだけで本当にありがたい。そして、上演をみると、文字を追うのとはもちろん違う印象を受ける。読み物として成立しそうな別役戯曲は、上演を踏まえたものの方がやはり良い、と確信できるので、ナカフラの別役上演は好きだ。

 真面目にしかしゃべることのできない紳士らは、発言に対し忠実に行動する。その妙な「別役縛り」のある世界は、何も無い砂漠であるようでいて、実に窮屈ともいえる場所である。天井から垂らされた糸電話の糸が、外界へのつながりだとはっきり見えた時に、これが別役戯曲か〜と謎の感慨が湧きとても満足してしまった。

 会場で会った友人は、この演劇特有の演技やしゃべりのルール(現代口語ではない発話)が苦手と話しており、その気持ちは少し分かった。ナカフラの上演においては、私はそのルールが不思議と前に出て来ないと思っていたので、感じ方に個人差がかなりあるのだなと認識する。「演劇では人が死ぬことはできない」という考えてみれば当然のことに対しても友人は触れていた。本作の中で、女性二人の死はセリフ上でのみしか伝えられない。それは気づいてしまえば陳腐な表現法だ(しかしそれしか死を表現するやり方はない)。ただ、五人の紳士のいる舞台上だけが特別で、そこに立っていない者の死はふいに現実的に感じられなかっただろうか。もはや舞台上だけが孤立し存在する世界のような……友人はそうは思わなかっただろうが……この手法が有効的になるにはどうしたら……。

 

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だんだんと長くなりましたが去年の観劇の感想はこんな感じでした。